いろんな脅迫、懐柔、誘導があっても、それに負けないで自分の思っていることを十分に話してください。この法廷はそれを保証します


宮崎学様



6月18日の公判は予想外の展開となりました。無罪判決への新局
面が見えてきたという印象です。

いつになく田中被告は緊張していました。痩せた顔がさらに険しく
なり、上気もしていました。チャクリット弁護士は疲れがシワを深
め目を神経質そうにしばたたかせています。通訳の佐々木さんはそ
んな様子のふたりを見て「なんとかリラックスさせる手はないかな
あ」とわざと冗談を投げかけたりしたくらいです。そんなときで
す。宣誓をした田中被告にたいして、裁判官のヴィロート氏から思
いがけない言葉がかけられたのです。

「あなたは、まだ被告ということです。起訴された罪状とその証拠
にたいして反論し反証していく立場にあります。それはあなたの権
利です。いろんな脅迫、懐柔、誘導があっても、それに負けないで
自分の思っていることを十分に話してください。この法廷はそれを
保証します」


その瞬間、田中被告はエッとした表情のあと軽くうなずき、率直に
感謝の気持ちを顔に表しました。そしてこわばっていた顔つきもス
ウーッと収まっていきました。ことばがようやく滑らかになりまし
た。

「わたしは、検察側が起訴した内容のすべてを否認します」
本人尋問は全面否認のこの言葉から開始されました。日本の報道陣
もこの日は熱心に耳をそばだてメモをとっています。新任の検事は
仏頂面で聞き入っています。チャクリット弁護士は時系列を追っ
て、田中被告の経歴を質問していきます。生まれはどこか、本籍、
両親について、小学校、中学校、高校のこと、そして学生運動のこ
と。

「わたしの名前は、田中義三。49歳」 職業は ? と聞かれて、し
ばらく考えたうえで「ビジネスマンです」と答えました。現住所は
どこですかの問いにたいしては「ピョンヤン市のウンスク通り、
21企画」と答えました。

「わたしは明治大学二部政経学部に在学する一方「共産主義者同
盟・赤軍派」の一員として、ベトナム反戦闘争と沖縄闘争に参加し
ていました。1968年当時の政治状況は -------------」 「日本
政府の対米従属、ベトナム侵略戦争への加担」「成田闘争」とすす
むにつれ田中被告の弁舌ももとに戻ってきました。検察側はあから
さまに「本件とは関係ない」という態度で無視、裁判資料をめくっ
ては別の考え事をしています。

ヴィロート裁判官はとても丁寧に細かく田中被告の答えを聞き、正
確にメモをしながら録音テープにその場で吹き込んでいきます。頭
脳明晰、公正な態度の裁判官に弁護側もすっかり勇気づけられたの
です。佐々木さんの通訳ぶりもさすがです。実は田中被告とチャク
リット弁護士が恐れていたのは、新しい裁判官が早期結審のため被
告本人尋問や弁護側の証人尋問をはしょり、結局は「既定方針」ど
おり「有罪」を言い渡すということになる事態でした。そうなるか
どうかは、この日の裁判官の態度でわかるだろうとみていたので
す。
裁判官はあきらかに昨年制定された新憲法の精神と立場にきちんと
のっとって審理をすすめるという決意をもっているように感じまし
た。(ポチが探偵ノートのナンバー12をご覧ください)

「1970年3月31日、わたしは8名の仲間とともに東京羽田発
の日航よど号をハイジャックしました。」
田中被告は自分からハイジャック犯であると法廷で名乗り出て、そ
の目的や動機を証言したのです。裁判官はさらに注意深く耳をかた
むけます。「目的地は北朝鮮のピョンヤンでした。途中南朝鮮のキ
ンポ空港に着陸、日本政府、韓国政府との交渉のすえ、乗客全員を
降ろしそのかわりに山村新治郎氏を人質として確保してピョンヤン
に飛んだのです」
「ハイジャックの動機は、ひとつに、当時の米国のベトナム侵略戦
争への日本政府の積極加担を告発するため。もうひとつは、わたし
自身逮捕状がだされていたのでそれを逃れようとしたこと。このふ
たつです。しかし乗客の方々をふくめ多くのひとに迷惑をかけてし
まい、申し訳なく思っております」

「北朝鮮が受け入れてくれましたが、それはわれわれの立場をその
まま支持するというわけではなく、(1)北朝鮮は日本の警察の代
理や代行はしない。(2)政治亡命とみなし人道的立場で対処す
る。というものでした」

裁判官は初めて聞くヤマムラシンジロウの名前まで公判記録にとっ
ていきます。田中被告の生い立ち、思想、性格、政治行動、考え
方、などなども判断の材料に欠かせないとする姿勢です。

いよいよ「偽ドル事件の舞台」とされたカンボジアでの田中被告の
行動に尋問ははいっていきます。
「その北朝鮮からなんのためにカンボジアにやってきたのですか ?」
「1994年の11月か12月に、カンボジアに来ました。指名手
配されているため田中義三という本名はつかえないので、北朝鮮側
の了解のもとキム・イル・スという名義の旅券を発行してもらい、
プノンペンに入りました。市内の安ホテルに宿泊しながら、ビジネ
スの機会をつかもうとしました。95年3月か4月に市内のパイリ
ンホテル内のピアノ・カラオケで児玉さんと初めて会ったのです。
児玉さんは同ホテルの二階にあるベトナムレストラン "夜来香"
(イエーライシャン)のマネージャーの女性の紹介でした。」
「最初は自力でビジネスをやろうと計画していましたが、わたしは
日本語と朝鮮語は十分つかえるものの英語、中国語はあまり出来ず
カンボジアでは困難が多いと判断して、児玉さんと組んでビジネス
をはじめることにしたのです」

このあと、田中被告は詳しく児玉さんの人となりを証言しました。
「児玉さんの人柄や影響力をみるためにしばらく時間をかけまし
た。そのうえで彼と組もうとしたのは四つの理由からです。第一
に、児玉さんは苦労して帰化した日本人であり、日本語で会話でき
ること。それに外国から戻ってきたカンボジアのひとは沢山います
が、児玉さんは一番カンボジアへの愛情をもっている人物でし
た。」
検察側の渋面は頂点にたっしてきました。

「あるとき、児玉国際貿易の事務所にドロボウがはいりました。自
動車部品やなにやら盗まれてしまったのですが、児玉さんは、まあ
これを持っていったカンボジア人が多少暮らしが楽になるんだか
ら、と考えればいいんじゃないの、ガードマンのひとも責めちゃ可
哀相だよ、というのです」弁護側から一種驚きの声があがり、検察
側はさらにむっつり、憮然の表情。

「第二には、児玉さんはあまり細かいことを詮索しないのです。わ
たしの隠していた過去のことも尋ねてきませんでした。これは有り
難いことでした。」「第三に、児玉さんのカンボジアでの人脈と影
響力はひろく、ビジネスを展開していくうえで最高と判断しまし
た。シアヌーク国王の娘さんとも親交があったし軍隊の最高幹部や
政府高官ともよい付き合いをしていました。」「第四に、これまで
の児玉さんのビジネスの基盤、とくに自動車部品の輸出入の実績に
たってやっていけるということです。こうして95年の9月に児玉
国際貿易会社を設立することを決め、10月には正式に登録しまし
た。タイヤなどの自動車部品のほかに、酒や煙草を扱おうと計画し
実際に96年1月中旬にはタバコの輸入をてがけていました。」

ここまでで午前の公判は終わり、休憩にはいりました。昼食に集
まった弁護士の面々は一様に「いやあ、びっくりした。こんなに裁
判官が親身になって聞いてくれるとは」としゃべり座はもりあがっ
ていました。チャクリット弁護士なんかは「わたしの弁護士生活
30年のなかで、今日みたいな裁判官の態度は初めて見た。感動的
だった。」とまで口にしました。

午後の法廷は最初から雰囲気は和らいでいます。弁護士同士で談笑
する姿はこれまであまりみられなかったものです。検察側だけが沈
んでいます。そして隅っこの日本大使館の担当官も何故か不機嫌で
す。

午後の開廷一番、裁判官は田中被告の健康状態を尋ねました。「あ
まり体調がよくないように見受けますが、大丈夫ですか。気を付け
てくださいね。もし証言の最中でも具合がわるくなったら休んでい
いですよ。」「ええ、ありがとうございます。刑務所内の食事が合
わなかったりするものですから。きょうはやや早めに切り上げてい
ただけますでしょうか。」こんなやりとりで再開されました。とこ
ろがそれからちょっとしてチャクリット弁護士がこのところの過労
からか右腕がつってしまい、まったく字が書けないどころか痛みで
顔をひきつらせる事態となってしまったのです。スラチェート弁護
士が一生懸命助けようとして、チャクリット氏の腕をつかんだり揉
んだり、薬を塗ったりしましたが効き目なく、結局公判はこれまた
意外な展開のなかで終了。次回のスケジュールを決めて閉廷となり
ました。

今後の公判予定は、6月25日、7月は無し、8月4日、8月25
日、9月15日、9月22日、10月13日、10月27日となり
ました。

宇崎喜代美