誤りだらけの讀賣の記事への反撃 

第5弾

 讀賣新聞記者だった青年からのメール


               

 ホームページをみたのですが、読売がタイでの裁判の件でやらかしたみたいですね。

 社の体質、とくに東京本社ナベツネ氏のおひざもとであるならば、記者個人の問題にくわえ、なんらかの意図があるとも考えられます。国際部と社会部との連携てのは普段あまりないですが、今回はことがことだけに。社会面にあれだけでかでかとのせるには、社としてのなんらかの「ニュースの重要性」の判断があったのでしょう。さらに、おっしゃるように、いままで「有罪」をにおわせておいて、わすれたころに急に「無罪」を前提として、そのいきさつもなく日本警察に引き渡されるかの記事をだすというのは、どういう魂胆でしょうか。

 私自身、「田中事件」については、詳しくは知らず、キツネ目のホームページなどでいきさつを把握しているだけで、直接なにものべられませんが、確かにテレ朝の「ザ。スクープ」の番組をみて、ああ「よど号」の田中氏がホクセンの手先として、からんでんのか、偽札に麻薬になんでもやるのう、と判断してしまった記憶があります。自分もマスコミにすこしはいた人間としておもうに、おそろしいことです。

 自分もそのグループにおったものとして、いえた口でもなく、また、おそらく続けていたら、おなじようなことをやらかしていたとおもいます。

OJTといえば、聞こえはいいのですが、新聞記者の日常は「出稿機械」のようなもので、とりあえず日々の紙面をうめるため、なんかないか、、なんでもいいからとにかくかいて、あとで選べということで、それをみようみまねでやっていくわけです。

 能力のない私でも記者にいちおうなり、4月の半ばには、デスクにめちゃくちゃ「なおされ」ながらも、記事をかくのですから、ある種おそろしいことです。

 それまでの読む方の立場としては、だれがかいたかも署名でなくてはしらないし、名前だけわかってもしかたない。ましてや、なにもなければ、私のようなものがたとえ交通事故でも、締め切りにおわれ、ええいといって出せば、それでとおるのですから、読者はそれをしんじるしかありません。また、実際読者としての自分もそうでしたから、いくら「疑え」といっても他に確認手段がないかぎり、信じるしかありません。

 たしかに、テレビと違い、新聞は記録記事として文字になってのこるので、間違いには神経をつかい、名前の間違い、住所の間違いから、事実誤認まで確認せよといわれますが、デスクはすべてを把握することは不可能ですから、各件に関しては記者個人に資質や態度にかかっているところは大きいことは確かです。

 ただ、記者も締切時間やわけのわからない「同業との競争」が存在し、一件一件確認することは次第になくなり、またそのような余裕もないと現実もあります。言い訳にすぎないともおもいますが。実際、自分はこの作業の破綻を予感し、やめてしまったわけです。

 
「日本型メディアシステムの崩壊」(柏書房)や「21世紀のマスコミー新聞」(大月書店)などでは記者やシステムの機械化、装置産業化くわしく述べられていますが、結局個人の資質にかかってくることは大きいです。自分自身も「よい記者」ではけっしてなかったし、そうだからこそ今のまま続けても仕方がないと判断したわけです。ただ、私がいうのもなんなんですが、ここでいう「良い記者」とは社が「優秀」とする記者とは必ずしも一致はしないということです。そんなことはどこの組識でもありますが、新聞がこんな言葉つかう人いるんかいなとおもいますが、「社会の公器」「木鐸」だのいうのならば、また「第4権力」であるならば、よけいに大きな問題となります。

 「よい記者」は、自分自身そして結局読者にとって「良い記者」をいうのでしょうが、それは「出稿のすくない」「作業が遅い」記者であるかもしれません。プロならば、「作業がはやく」かつ「良い記者」である必要があるのかもしれませんが。自分自身は結局、社にとって「優秀な記者」でも、「読者にとって良い記者」でもありませんでした。それは私自身の「甘さ」からくるところは大きかったとおもいます。
 いまでも「アマちゃん」ですが、振りかえっておもうに、確かに記者は日常、仕事として多くの人にあうけれども、また警察などの取材源との「つかずはなれず」の関係を必要とするけれども、結局読者には「顔」を向けてはいないのです。

 これは記者という職業の特殊性であり、また摩訶不思議な現象でもあります。一体、だれのために書いているのかわからんのです。日常の正直なところ。マスコミはそれこそ、それを読む多くの不特定多数の人にむけられてものです。その人々がしりたいこと、またそれだけでなく、しらさなければいけないこと(これも勝手な判断ですが)、その人々がしりえないから、自分達のあたえられた「特権」を使い、かく、これが建前でしょう。

 が、記者は他の商売とちがい、最終読者に普段接することはない。「消費者」といえば語弊がありますが、その「顔」はしらない。ゆえに、知らないうちに「身内」の論理や「同業他社」とのわけのわからん競争意識(これが唯一の原動力といってもいいでしょう)でしか、動かなくなります。他がかかないことがうちが、これは重要なことです。しかし、そういう意味のスクープなどほぼなく、ほかより「先に」か「他がかいていることがぬけてないか」がほとんどです。

 海外特派員だと、多分、その記者個人の資質によるところが余計に大きいとおもいます。現地の社の人間はすくないですし、そこでの管理職の把握度合いもすくない。ゆえにチェックも自分自身ということになります。

 ましてや、おくられてきた本社、その他は確認のしようがなく、そのまま載せるのみです。で、新聞社はなぜか、昔から「海外発」を安易にありがたがってのせるところがあり、「署名」の「名誉」が与えれるというところがあります。なら、余計にちゃんとせなあかんのでしょうけど、外のことは国内の人間は余計にたしかめようもないことがおおく、ある種やりたい放題なのでしょう

 さらに、マスコミは読者に顔をむけていないにもかかわらず、自分自身の勝手な重要性の判断と、御都合主義で動いていくようになります。「大衆迎合」の意味をはかるのは困難なことですが、ひとりの読者などは無視するが、「社会の情勢」に異常に敏感なのは、ご承知のとおりです。そうして、相乗効果で「世論」「国民感情」なるものが形成されていくのです。柏書房の「パルマケイア叢書」というのがあるのですが、それを大学のゼミでよんでいたのですが、直接マスコミのこととは関係ありませんが、「敵の顔」やその他のシリーズに「国民世論の醸成」「雰囲気」のおそろしさがかかれています。「草の根ファシズム」とよぶべきものかもしれません。

 さらにさらに、さしでがましく、推量するに、社としての対応はあくまでもあれをかいた記者が矢面にたたないように、どこかに「隠す」でしょう。記者への「個人攻撃」は許さない、それが社が担保する保障機能であるというわけです。

今回の場合、社の意図があるないにかかわらず社としての責任、記者個人の責任があるとおもいますが、それを双方への「攻撃」とみなすわけです。

 新聞にかぎらず、マスコミという組識は「取材源」と緊密になればなるほど、必然的に相手の組識に対応する形になり、「一卵性双生児」となっていきます。

 つまり、「警察組識」や「官僚組識」にきわめて似た形になるわけです。組識と言うものはみなそうですが、「警察」を代表とする「官僚」と「マスコミ」ほど「戦前軍隊」に近いかたちの組識であり、かつそれがいっこうに変化しないものはありません。
それは良きにつけ、あしきにつけ、「営利」という動機づけがないからで、「一般企業」などはそれをよしとしていても、営利があがらなければ、いやでもその組識形態を変革しなければならない。
が、官僚組識にはそれはなく、またマスコミも十分すぎるほど「営利組識」であるが、直接の取材機構と営利とはむすびつきにくい、それは良い点もあるが、機構が変革しない要因になっているとおもいます。

 そして、組識はみなそうですが、官僚組識とマスコミはおどろくほど、外部からの「攻撃」に敏感でかたくなです。マスコミはまあ、「批判」つまり「せめること」を生業にしているので、「まもり」には慣れておらず、批判されるとすぐに「言論機関への攻撃」などなんでもかんでもいっしょくたにして、「まもり」に徹します。だから、間違いをみとめようともしないし、認めても「でかでかとした間違い記事」にたいし、ほんのすこしの「訂正、おわび」記事です。

 マスコミは間違いはなかなか許されない機関ですが、それでも間違うことはあります。その時の対応が問題なのですが、その時に変な意味で「間違い」をきらう、つまり最初からそれならちゃんとやれということですが、「間違い」を「間違い」とせず、なんとかやりすごしたいと発想するのです。間違いをみとめると、社、組識としての信頼、イメージをそこない、また記者個人およびその管理職の責任問題になるということを極度に、組識として、個人としておそれるのです。このように警察並みに「身内意識」が強い組織であり、ほんとの権力からの「攻撃」には無防備であるのに、このようなことには異常に関心をはらいます。

 また、逆によその社がへますると、大喜びするところもあります。この点、権力からの攻撃には一致団結して対抗するという意識は希薄です。が、同業者の批判すべきとこは自分にもかえってくるので、批判せず、安全圏にいるときだけ、大喜びする点も顕著です。

 それでも、警察同様内部告発がおおい組識でもあり、いろんな思惑から怪文書がとびかいもします。こうしてかくと、伏魔殿のように聞こえますが、そこまででないにせよ、日常としてはそんなものです。すぐにやめた組識の悪口ばかりいいつのっているのは恐縮ですがわかりきったことかもしれませんが、一応おくります。


 


 筆者は、昨年讀賣新聞入社。3か月後に「自己破たんして」退社。現在会計士の勉強中。「匿名でなくてかまわない」と言ってくださいましたが、宮崎とも相談の上、「どこにどんなアホがおるかわからんし」ということで、当方の判断でお名前を伏せさせていただきました。 【電脳キツネ目組・おつかい係】