しらけ統一地方選 投票いかへんのが良識やで
統一地方選挙が終了した。目玉は何といっても前半の東京と神奈川の知事選だったわけだが、結果
はご承知のとおり。しらけた結果である。
争点はないに等しい。東京都知事選に関していえば、石原慎太郎という人物の戦争に対する超タカ派的スタンスが、もっと議論されるべきだが、まるでなかった。彼自身何を言ったのかといえば「国の行政のスピードが遅い。東京都から変えていくしという訳のわからん話でゴマかしているにすぎない。言うまでもないが、行政に必要なのは速度ではなく中身である。
ほかの候補の主張にも大差はない。結局、どんな"イメージ"を作り出せるかが"勝負なのだ。慎太郎の場合にせよ、要は待望論の残りカスがまだ燃え残っていたという程度のことにすぎない。308万の獲得票にしても驚くこともなかろう。
何しろ共産党の若林義春以外の候補は、慎太郎、樋口恵子、ドクター中松、いずれも70代。いわば「高齢者の枢軸」である。まあ、きたる高齢化社会を予感させる風景ではあったがな。
投票率も、相変わらずの低調(都知事選44・9%)。しかしまあ、この顔ぶれを見るかぎり、選挙に行かないという選択肢のほうが、かなり高い問題意識の表れとも言えるのではないかと俺は思う。

選挙とは票という金で政治家を買う行為である。八百屋に野菜を買いに行くのと何ら変わるところはない。当然、今はこれが旬だとか、これが体にいいと考えて買う。仮に店頭にあるのはカビの生えた野菜ばかりとなれば、それをだれが好き好んで買うか。選ぶ基準が、よりカビや腐りが少ないものとは情けない話や。
選挙に行かなかった者こそ"良識ある有権者"ではないか。彼らほど民主主義を理解している者はおらんで。むろん、俺もそのー人だったわけだ(桜花賞と重なったことも大きいが)。
競馬の予想なら、当たろうが外れようが、そこには熱狂がある。しかし、今回の選挙にそれがあるだろうか。慎太郎が樋口になっても何も変わらんやろ。慎太郎が2期続けても同様。これまでの4年間で東京の何が変わった?もともと慎太郎は国会議員時代から何もできん男だった。そんな男に期待すること自体、ムダな議論なのである。
そして神奈川県知事選。田嶋陽子の立候補が物議を醸した。批判の余地はいくらでもあるのだが、俺としては評することすらおこがましい。ああいう人間も生きていける明るい社会を目指すことは大切かもしれんがな(笑)。
地方に行けばそれなりの変化はあったといえぱあった。だが、それにしても国政に与える刺激はきわめて少ない。例えば、高知の県議選。自民党が過半数を割っている。しかし、その実体をよく見れば、自民党と公明党の関係が緊密になっただけの話。要は公明党による自民下支えの構造がはっきりしたということにすぎん。今や自民党は公明党という大組織のために戦う"実働部隊"にすぎなくなっているというわけだ。
これについて、公明党のやり方が正しいとか正しくないとか論を交わす者もいるが、今に始まったことでもないだろう。
また今回、女性当選者が急増したという側面もあった。しかしこれも、候補者数自体が増加していることからすれば、当然といえば当然の成り行きではある。確かに女性の社会参画というトレンドを考えれば、今後も増加傾向だろう。だが、俺としては、男受難のこの時代こそ「女の横暴を許すな、男にも人権がある!」とでも叫んだほうが、よほど支持されると思うで。
まことあきれるしらけムードなのだが、その原因とはいったいどこにあるのか。まずは非常に安易ではあるがメディアの責任。
争点があり、選挙しだいで何かが劇的に変わるかのような演出によって、大衆の関心を得ようとするのは、メディアの本質だ。しかし、今回はその演出があってさえも世間を騒がせることができなかった。つい先日までイラク戦争の生々しい映像を嫌というほど見せつけられてきた側としては、まあ、ダルマに目を入れて万歳三唱するアホな姿になんぞ、何ら興奮できはしないやろな。

そしてもうーつ、選挙における"言葉"の問題である。そもそも選挙とは世論をどれだけ取るかの争いであり、そこにはさまざまなキャッチフレーズが使われる。その使い方への問題の表れともいえよう。今で言えば「市民」「改革」「無党派」が3大人気ワードだ。これらに共通
するのは、いずれも血の通った言葉ではない、ということだ。耳ざわりこそいいが、本質は皆無。これほど無味乾燥な言葉がいくら蓄積されたとしても、そこからは何も生まれてこない。今回、県議選で苦戦を強いられた田中康夫知事がいい例だが、彼は当選後、「しなやかな県政」という言葉を使い続けた。確かに耳ざわりよく、多くの支持を得ることができたが、それも繰り返されるごとに本質のなさを露呈した。それに有権者の〃飽き"が拍車をかけたといえなくもない。
また、今回の選挙でもうーつ話題になったのがマニフェスト(要は政策の宣言や)。これも言葉の目新しさに頼っただけの話。官僚たちは毎年これと同じことをやっている。だとすれば、官僚ベッタリの議員なら、いくらでももっともらしいものが作れるということにもなる。この流れが国民に支持されることで、最も得なのは、結局、自民党議員なのである。
要するに、パフォーマンスとしての政治はもはや限界に来ているのだ。このことは、これまでの延長とはまったく別
の形で政治が再編されるためのプロローグとも言える面もある。
無内容な言葉による量的蓄積は質的な転換を迫られざるをえないからである。ただ、それは必ずしも一般
民衆にとって歓迎されるものとは隈らない。極端なものとしては、ファシズム的要素をはらむ危惧さえあるのだ。だが、しらけきった現状からすれば、その危機感さえ実感できない。
本来なら、現代のような激動期には、少なくとも選挙運動員どうしが駅前の演説場所を争って乱闘するくらいのことがあってしかるべきだが、そんな場面
もなかった。どんなにリストラされても〃暴動"さえ起こせない、なえた国民性の象徴といえばそれまでではあるが。いずれにせよ、滅びゆく国の選挙とはこんなもんなのだ。