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ますます沈没する日本に 「ええ正月」や「めでたい新年」などない
宮崎学である。 あとわずかで今年も終わり、ということになる。別になんもめでたいことはないが、来年はもっとない。 最近、当サイトを以前ほど更新してないといわれるが、理由のひとつは、このホームページも開いてこれで4年目になるのかな。ずっと「このままではこの国は沈没や」と言い続けてきたが、今や、誰でもそんなことわかるよってな。そして、その原因も、これまでさんざんいうてきたことや。わかっていることを言う必要もない。 若い人には気の毒だが、もうこの国の未来に希望は当面あまりない。 「景気回復」とか「就職戦線回復」とかいうことはない。産業はますます海外へ逃げ出すが「構造改革」など遅々としてすすまないだろう。企業は学歴や中途半端な「人材」はいらない。ヤクザですら「ヒットマンには外人雇ったほうがのうりょくが高うてゼニ安いからええ」ゆうとるのである。産業空洞化やがな。 それならどうしたらええのか?という質問を受けたが、「この国をいったん捨てよ」というのがわしの答えだ。 特に若い人は、裸でアジアで勝負してこいや。そして現地で肉体労働をしてもあの人たちに負けない、というぐらいの実績を上げて、自信がついたら日本にまた戻ってくればよい。もっともっと落ち目になって捨てるものをすっかり捨て去った日本になっていたら、キミはそこで活躍の場を見つけられるだろう。それがいつかはわからないが、まだだいぶん先であろう。そう簡単にこの国の腐れやニンゲンの劣化は治らない。その中にいたらキミもいつのまにか腐る。 ん?年寄り?団塊の世代はどうしたらええかってか? わしもその世代だが、その世代こそ日本をここまで悪くした責任をとって初日の出をみながら海に身投げして沈没すべきであるにもかかわらず借金を若い人々に押しつけてノウノウと暮らそうというのだから、わしはしらんがな。 しかし、ちょうど、タイの宇崎さんが参考になるレポートをおくってくれてるからそっちでも読んで「優良外人」でもめざせや。
では、そういうわけで、ロクな年にはならないのだが、とりあえず皆達者くらせよ。 2001/12/31
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(アサヒ芸能 1月3/10日号 キツネ目事件調書より )
今回は、2001年に相次いだヤクザの抗争事件の総括と、2002年への展望について考えてみたい。01年の動きをひと 言で言えば「西高東低」の崩壊ということになる。 かつてヤクザの抗争は酉が派手で東は地味といわれていたのが、-完全に逆転してしまった。夏から秋にかけて新橋や銀座で も國粋会の内紛に絡んで乱闘が頻発し、実弾が飛び交う騒ぎが起こった。これなど今まで はそれほど見られなかったことだ。関東での抗争が増えた理由は大きく3つある。 第一は 関西で巨大組織の二元支配がほぼ完成したのに対し、関東はいまだ群雄割拠状態が続いて いるということだ。 2番目は、経済環境の格差だ。85年以降のヤクザの抗争というのは、 かつてのような.組織w組織から組織内の序列を巡る内部抗争に変わっているのだが、それはよりいいシノギを巡る争いとも換言できる。 その点、関西は景気低迷の度合いが関東よ り急激だったため、早くから激しく争ってきたのに対し、関東は身内で争わねばならないほど厳しくなかったのが、01年あたりからは余裕がなくなったのだろう。 生保会社のよ うに、表面的には競争を装いつつ、実際は護送船団方式ですべて守られていたのが、本格的な競争に入っだというわけだ。経済的な苦境の中で縄張を守るために各組どうしの系列 化が進行。こうした流れの中で、組の内部で利益が対立する勢力が抗争を起こすパターン も目立った。 JR新橋駅近くで大乱闘を演じた国粋会の争いはまさにそれだ。国粋会とはもともと銀座 や浅草を本拠地とする東京でも老舗に唐する組織。それが西から勢力を拡大してきた巨大組織に対抗するため、他組織と提携を考えた。 その際、組長を中心とする主流派が桶川会 との関係を深めたのに対し、反主流派は住吉会を選択。その結果の内紛なのだ。この国粋会の内紛は最終的に桶川会のヒットマンが住吉会の最高幹部を射殺するという事件にまで 発展したのだが、両組織はもともと対立していたわけではない。国粋会の内紛が逆に両組 どうしの対立を生んだわけで、その意味では逆・代理戦争といってもいいだろう。 しかも、 ここで注意が必要なのは、この住吉会の最高幹部が射殺された場所が「葬儀場」だったと いうことである。アウトローであるヤクザにもルールはあって、葬式や結婚式、墓参りな どの場で狙うのはタブーとされてきた。 その掟が今回、破られた。内部抗争を起こすこと 自体が、親子関係を重んじるヤクザの道義 が揺らいでいるといえる。ただ、だからといってヤクザの伝統的価値観が崩れたというこ とではない。ヤクザは社会からドロップアウトした連中だ。ただ、その中でも集団として の社会性は生まれるわけで、その社会性が現代のあり方を反映するだけ。ヤクザのあり方 も今風になっているというだけのことだ。 さて、では02年のアウトロー業界はどうなるか。基本的には01年の流れが続くと見てい い。いや、さらに抗争が、複雑に拡大するだろう。従来は中小の組が大きな組の代理戦争 をするというのが基本だったが、今後はここに外国人マフィアが絡む。 実は末端部分では、海外マフィアにかなりの部分が浸食されているらしい。 かつては新宿 、池袋など、大きな繁華街ごとに国内組織のおおまかな勢力分布があったのだが、最近で は、新宿は上海グループ、池袋は福建省グループとさえ言われているのだ。この傾向が、 02年は全国的に拡大する危険性もある。.日本の伝統とは無縁の外国人勢力が拡大すれば、 日本のヤクザも対抗するしかない。抗争のグローバル化である。銃器を使った抗争も01 年以上に増えるのは間違いない。何しろ、マフィア連中はしがらみなく殺人ができる。 一 方、金銭を武器に、外国マフィアを日本のヤクザが鉄砲玉に使うことも増えるだろう。特 に中国系にとっては、生涯使っても使い切れないほどの大金がー人殺すだけで手に入るか もしれないと思えば、迷わずやるだろうよ。 先の殺傷事件の件も、表面的には手打ちということになっているが、このまま終わるとは思えない。事件の背景にある国粋会の内紛が いまだ決着していかいからだ。その意味ではアフガン戦争のようなものといっていい、停戦したとしても、どこでまた戦争が勃発するかわからないし、.どこで起こってもおかし くないからだ。 しかも、警察権力はこうした抗争に対抗できないだろう。暴射法施行以降 はどの組にどんな組員がいるか、まったく把握していないようだ。まして、ここに海外マ フィアが絡む状況の中では、まったくお手上げだ。しかし、これだけ抗争が増'える原因 は、警察自身にあると俺は思っている。 というのも、ヤクザ、特に関東のヤクザはその時々の政治と密接にかかわってきた。実際、終戦直後、国家の治安カが低下している時期に 、それを補完したのがヤクザだった。ところが暴対法以降、関東では権力とヤクザの微妙 な関係を捨てて、建て前でゴリゴリ取り締まり始めた。今までお世話になってきたヤクザをつぶしにかかったのである。そうなれば、ヤクザとしては本来の姿に戻るしかない。 警察の因果応報だ。 関西でも山口組・宅見勝岩頭射殺事件以降、警察が一気に組織壊滅に力 を入れたが、その直後から大阪のミナミで は中国人マフィアが台頭し、オヤジ狩りが増えたというの一も、同じ理由だろう。 つ まり、一おう街の秩序を保っていたヤクザという存在がなくなったことで、むしろより 悪い状況が生まれた。バイ菌はよくないといって無菌状態にすると、O-157のような とんでもないのが出てくるのとまったく同じ構図である。 日本の警察が自分の愚かさ に気づかないかぎり、この領一向は変わらない。まあ、俺としてはとてつもなく興奮する 楽しい話だが、世間的にはアウトロー世界は大混乱時代の幕開けといってもいいだろう。 ここまで感心にちゃんと読んだどくしゃへ うむ、きっとキミはこういうモンダイに興味があるのだろう。実は、わしは今、例のシガラミ争紙でいっしょに滋賀県警とケンカしている高山登久太郎さんの評伝を執筆中である。 正月のサービスとしてその一部を紹介する。 突破者異聞 「鉄(KUROGANE)」 〜極道・高山登久太郎の軌跡〜 差別について 差別を受けた者がとる対応はその受けた差別の質と程度、及びそれへ の怒りの度合いによりその形態は異なる。高山登久太郎は在日韓国人で あるが故に受けた差別について多くを語ろうとしない。いやむしろ「ワ シはそんなに差別とは思わんかった」と否定する。 しかし、高山登久太 郎の生まれ育った時代を考えると高山登久太郎のその言葉は、高山登久 太郎がいかに深い差別を体験したかの逆の証と私は考える。 差別を受けた人間がそれを被害と考えたその瞬間、それは差別をした 人間に対する敗北を意味することとなる。高山登久太郎はそう考えてい るのではないだろうか?悪意に充ちた差別意識に対する逆説的な対応と してつまり、「ワシは、そんなこと堪えてないぞ」と表面的には受け流 すというあり方。高山登久太郎は被害者となることを弱者の感性として 拒否しているのではなかろうか。 話は変わるが、私はあるプロ野球の元選手からこんな話を聞いたこと がある。デッドボールのことである。相手のピッチャーが渾身の力をこ めて投げた直球が打者に当たったとする。そのとき打者は何食わぬ顔を して審判に「当たってない」とアピールする。この時そのボールを投げ たピッチャーは、自分の投げた球の球威がなかったという事態を目の当 たりに見せつけられる。打者の審判に対するアピールは実はデッドボー ルを投げたピッチャーに対する解答なのだ。「おまえが渾身の力をこめ て投げたこのデッドボール、俺にとっては蚊の刺したようなものだ」と 告げているのである。これはデッドボールを投げたピッチャーに対する 最大の侮辱である。 高山登久太郎の対応は、これと同質ものではないだろうか。悪意に満 ちた差別意識を持つ者に対して「ワシら屁とも思とらんで」ということ なのではないだろうか。悪意に満ちた差別意識による被害者としていか に自分が傷ついたか、いかにひどい仕打ちであったのか、ということを 解答とした場合、それは相手に対して効果があったことを認めることに なりはしないか。それが許すことの出来ないことなのである。人は、い や私は何故に長いものにまかれることを拒否してしまうのだろうか?打 算であれば、そうではない道があることも熟知しているつもりではない か。打算と反発、このバランスの中に人はあるのではないのだろうか? 高山の歩んだ道もこうであったと思う。 反骨の原理 高山登久太郎の反骨の原形はどこにあるのか?その前にひとつのエピ ソードを考えてみたい。 戦前、3.15の大弾圧で逮捕された共産党員の中に水平社創設のメ ンバーであった西光万吉がいた。彼は獄中で転向して天皇主義者になる。 当時西光と一緒に逮捕されて獄中にいたのが共産党の幹部であった春日 庄次郎であった。春日は転向しなかった。ある時刑務所長は政治犯を集 めて西光の転向を賞賛する一方、春日の非転向を大勢の前で批難した。 その刑務所長の態度を突然西光が批判する。転向したはずの西光が突如 非転向の者を擁護するのである。言うまでもないがこの種の行動は当然 西光にとって不利益をもたらす。転向ということが自らの実利のために行われたものであれば、この西光の行動は実利とは対極にある行動と言 えよう。世俗的な言い方をすれば、せっかく転向してお上の覚えめでた きになったのに、なぜそれをかなぐり捨てる行動を西光は取ったのだろ うか。この西光のエピソードと高山登久太郎がその苛烈な人生の諸局面 で示した反骨とは、通底する感性があきらかに存在していると私は考え る。 それではその通底する感性とはいったいなんなのであるか。それは全 く日常的な生活の中に突如として、あるいはごく当たり前のものとして 現れるその時々の圧倒的な力を持つ強者の弱者に対する理不尽で強引な 力の発動に自然発生的に対抗するという感性である。
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