見送られる歌もなく旅だった

自衛隊はいずこをさまよう

              

 三 上  治 11月16日

【1】軍歌を持たない軍隊

 

 アメリカ軍の軍事行動を支援する「テロ対策特措法」など関連三法が成立し、自衛隊の戦時派遣がはじまった。この内容についてはことあらためた説明はいらないと思う。これは戦時に戦場に隣接する地域への自衛隊の派遣を可能とする法案である。これで自衛隊が戦時に外国の領域に武装して出動することができるようになった。なし崩しにというか、はっきりした根拠も持たないまま、9月11日の同時多発テロへの対処とい大義名分の下で自衛隊の海外派遣を決めてしまった。アメリカ軍のアフガン攻撃がどんな根拠に基づくのかはっきりしないまま進行しているのに輪をかけたようなものである。

 この法案を見て人々はどんな感想を持ったのだろうか。僕は、唐突であるが、海外に派遣される自衛官はどんな歌で見送られるのかと思った。まさか、「歓呼の声に送られて」という軍歌で送るわけではない。あるいは「海ゆかば」でもないだろう。新聞報道によれば、インド洋へ向けて三隻の軍艦は家族ら見送られながらひっそりと出港して行ったとある。

 僕の中には出征兵士を見送った残像がある。太平洋戦争の末期に僕はちょうど4歳になっていた。四日市市にあった海軍燃料廠がアメリカ軍の爆撃で燃え上がった光景とともに、出征兵士を見送った記憶がある。兵士たちは、村人の盛大な見送りの中で出征して行った。僕の記憶は後に映画などで見たものが付け加えられたりして合成されているはずだから、どこまでが幼児のときの記憶かは定かではない。ただ、自分の中では幼小のころに見た記憶であると思っていて、戦争というとどうしてもこの光景がよみがえる。

 

 太平洋戦争がどのように歴史的に評価されるかはともかくとして、それが国民と国家を挙げて遂行されたものは確かである。僕の記憶にある光景はそれを物語っているように思える。出征兵士たちは村人の熱い期待と祈りを背にしていた。

 

 自衛隊がアメリカの対テロ戦争の要請に応じて、戦場の近くに出掛けていく時、日本国民はどのように彼らを見送るのだろうか。かつて国民が出征兵士を送ったような連帯感やきずながそこにはあるのだろうか。自衛官を見送る国民に不安や戸惑いこそあれ、熱い期待も連帯感もない。死路の旅になるかも知れない兵士たちを送るにしてはむごいことだと思う。確かに同情はあるのだろう。職務とはいえ、国民から期待も支援もない中で戦場に行くことは辛いことだろうと思えるからだ。

 

 政府は儀礼的にも、実際的にも派遣される自衛官たちを盛大に見送りたかったに違いない。戦後はじめての日本の軍隊の海外派兵なのだから。そうあったとしても、それは官製的なもので、国民の自発的な意志によってなされるものではないことを政府といえども知っている。国民は自衛官を見送るにしても歌う歌もない。一緒に歌うものがないのだ。かつて、出征兵士を送るときに歌ったような歌を今、国民は持ってはいない。

 いま軍歌と言われるものは日本帝国の軍隊の歌である。それは自衛隊の歌ではない。今でも自衛隊員は「同期の桜」などの軍歌を歌っているのかしれない。それは自衛隊と国民が共有している歌ではない。人々はカラオケで軍歌を歌うしても自衛隊とは一緒に歌わない違いない。自衛隊は軍歌を持たない軍隊である。ということは物語を持たない軍隊である。軍歌や物語をこれから作ろうとしているのか知れないとしてもである。

 自衛官を戦場におもむかせることは彼らに死の覚悟を要求することだ。戦場に行くことは何よりもこうした単純で、しかし、重たいものであることを決して忘れるべきではない。職務として海外に出ていく自衛官は死を覚悟することを要請されるのであり、それが軍隊として戦場へ行くことである。戦場へ出掛けて行く兵士たちは、この命をかけた行為を国民がどういう視線で見ているかを一番気にしていると思う。兵士たちは国家を、国家を通して国民の意志を背負って戦場に行くのである。彼らにこころの支えがあるとしたら国民の期待であり、国民との連帯感であるはずだ。

 

 国民との連帯感を持たない軍隊ほど悲惨なものない。しかし、それは疑いもなく自衛隊の現在の姿である。このことの意味を僕らは考えなければならない。それは自衛隊にとっても、国民にとっても不幸なことであるからだ。どんな契機であれ、国家の旗を背負い、国民の意志として戦場におもむく兵士たちについて、踏み込んで考えよう。それを踏まえた批判でなければ、僕らの声は彼らに届かない。

【2】自衛というが、それは何か

自衛隊とは何にか。こういう単純な問題に僕らは明瞭な答えを出してはいない。自衛隊は日本国家の自衛のために生まれた軍隊である。日本が国民国家であるとすれば、それは国民の軍隊でもある。それが自衛隊に与えられている公式的な説明である。自衛隊はこの理念に支えられ、世界で何番目かに数えられる優秀な装備を持つ軍隊である。装備という点で言えば強力な軍隊である。しかし、これは形式であり、建前であって、誰も自衛隊を国民の軍隊であるとは思ってはいない。政府も国民もそのように思ってはいない。

 自衛隊が国民の意志や意識に基礎を持たない存在であり、そうした実質を欠いていることを誰もか知っている。制度や装備ではなく、軍人として自衛官を支える精神(魂)の部分に大きな欠如がある。かつて三島由紀夫はこのことに怒り、自衛隊に決起を求めた。それは自衛隊が軍隊としてのエトスを獲得することであり、軍隊の精神性の形成であった。

 僕は三島由紀夫とは反対に自衛隊の精神性の欠如を国軍化への歯止め重要な要素として考えていた。それをある種の安心感の材料にしていた。けれども、今、これは逆に自衛隊が戦争の場面に踏み込んでいくとき大きな問題になるように考えている。

 国民との精神的つながりの欠如からくる自衛隊の心的部分の空虚さはねじれであって、そのまま放置しておいていいことではないからだ。もちろん、自衛隊を国民の軍隊にして、このねじれをなくせよというのではない。このことの理由を掘り下げ、将来に渡って自衛隊をどうすめかの構想を考えるべきなのだ。僕は自衛隊の軍隊としての性格を薄め、それを解体していくべきであると考えているが、そのためには自衛隊の現状に対する認識は前提となる。

 自衛隊が国民との共同意識を欠落させていることは憲法規定(非戦条項)からくることではない。憲法を改正すれば解消するものではない。国民の戦争についての意識からくるもので、理由のあることである。政府はこれはマイナスと考えているが、僕は反対にこれをプラスの契機と考えている。いずれににしても、ここを国家と国民と軍隊の関係を考える原点として不断に立ち返り考察する必要がある。

 

 自衛隊は日本の自衛のために存在する軍隊であるが、自衛とは何かについて国民的な合意が存在してはいない。確かに、日本は国民国家であって、国家としての自衛権はあり、それは憲法第9条の規定(非戦条項)とは矛盾しないということになっている。これは、おおざっぱな国家レベルの自衛についての概念である。しかし、国民は国家が自衛権があるといっても、自衛とはどういうことだというはっきりしたイメージを持っているわけではない。

 

 国家によって、国民の生存(生命や財産)が守られるということが自衛なのであるが、国家レベルと国民の意識においてその認識に大きなズレがある。正確にはこの認識について国民の意見は一致していないのである。大きな枠組みでの統一性がないのである。

 国民の生存が守られるというとき、当然それらが誰かに侵略され、脅かされるという認識が前提としてある。つまり、日本に侵略したりする国家、つまり仮想敵国が存在するという前提がそこにはある。

世界が国家を最高の共同体として成り立っていることは、国家間の対立があり、一つの国家にとってほかの国家はすべて仮想敵国である。国民国家は主権を持ち、交戦権を持つということは自国以外の国家は仮想敵国として潜在的には存在しているということだ。

 

 その濃淡はあれ、日本にとって、日本以外の国家は侵略する可能性のある敵国である。これが国家の自衛の概念の根底にある。政府の自衛概念はここに根拠を持ち、自衛隊はそれのための軍隊である。主権国家にとつて自衛のための軍隊を持つことは必然的な機能である。しかし、国民はこういう仮想敵国の意識、自ら生存が他国から脅かされているという意識を持っているのだろうか。こういう意識を全然持ってはいないということではない。どこかでかすかであれそういう意識はあるのだと思う。それが、自衛隊の存在を否定しない理由になっている。なんとなしに自衛隊を存続させている理由になっている。

 だが、日本という国家が、簡単に他国から侵略されることなどないと思ってもいる。他国の侵略はもう不可能な時代であるという意識がある。逆に考えてもよいが、日本が他国を侵略などできる時代ではない。自衛の概念の自明性、その機能としての国軍ということを国民は必然として意識してはいない。これは国民国家としての日本の現在の矛盾である。しかし、これは国民国家が歴史的に遭遇している矛盾であって、日本はそれを最も鋭く現している。だが、世界の国家はこういう問題にであっているのである。国民国家が歴史的に見て、解体に直面している根拠をなしてもいる。

 自衛という限り、《敵》つまり、《敵国》が存在する。一つの国家は他の国家はすべて《敵》もしくは《潜在敵》であるというのは、国家の自然性であった。国民国家もその連続性の上にあった。現在、この自然性は疑われている。敵はかつてのように自明ではなくなっている。現在の国家は《敵》あるいは《潜在敵》の不在という問題に直面しているのである。僕は先程、自国以外の国家は《敵》であるという意識がかすかであれ、どこかであると述べた。これと《敵》の非在、あるいは不在という意識は矛盾であるが、これは国家をめぐる現在の国民意識の矛盾であって、それを丁寧に分析していけば、国家をめぐる歴史的課題を発見できるはずだ。

 

 国家権力の中枢にいる連中からは国民の防衛意識や危機意識の欠如と見なされる。小林よしのりが《戦争は悪ではない》として旗を振っているのも同じ立場である。しかし、国民は漠然とであれ、国軍など不要と思っている。戦後の国民の非戦意識はもっと深く根づいている。この自衛をめぐる意識のあり方はそれこそ《現実性》であり、そこを出発として掘り下げていくべきことである。

また仮に侵略にあったとしても国家の軍隊が自衛の役割を果たしてくれるとは思ってはいない。太平洋戦争の後遺症といえばそうなのだが、国家の軍隊など国民の生存を守るのに役には立たないと思っている。これは後遺症ではあるが、国民が太平洋戦争から得た歴史的遺産ともいえる。だから、自衛とか、自衛における国家の軍隊の役割について国民の合意は形成されてはいない。

 

 この根底には《戦争》(国家間戦争)についてさまざまな考えがある。戦争は自国民を守るための行為であるという認識があれば、他国を使っての自国民の虐殺であるという認識もある。僕は戦争とは国民の虐殺であると考えている。自衛のために国家の軍隊を必要とする20世紀の常識を疑っている。自衛という概念について、政府や政権担当者と国民の間の一致した考えはない。これは日本という国家のマイナス要素とみなされてきたが、世界的に先端をあらわしているのであってプラスの要素と考えてよいのである。

 自衛隊についても政府や政権担当者と国民の間では違った認識がある。そこには大きな断層があり、それは自衛隊をめぐる《現実》にほかならないのである。もちろんこれは国民が「平和ボケ」しているからではない。それは歴史的な国家や戦争の問題を表現しているのであり、注意深く対応すべきことなのだ。流通している自衛の概念と僕らの意識の間に亀裂があれば、そこにこそ現在性があるのであって、その意味を考え抜けばよい。

 

 こういう事態は戦後の日本社会が太平洋戦争の総括を行い、国家について、国民と国家の関係について国民的な合意を作れなかったことからきている。それを最も象徴するのは自衛隊の誕生である。自衛隊は朝鮮戦争を契機としてアメリカ軍の要請で形成された警察予備隊が変遷を経てなった。アメリカの対ソ冷戦戦略から出てきた。アメリカの対ソ戦略を受け入れた日本政府にとって自衛隊は必然的なものであった。が、国民にとってはそうではなかった。政府にとって日本の自衛とは共産主義諸国からの侵略に対する自衛であり、ソ連や中国は明瞭な仮想敵国であった。

 

 しかし、日本の国民にとって自衛は政府ほど自明ではなかった。仮想敵国の意識も政府や自民党ほど明瞭ではなかった。ソ連や中国が侵略国であり、仮想敵国であると国民は政府ほど思ってはいなかった。この政府と国民の自衛意識の落差は、自衛隊に対する国民と政府の意識の落差として存在してきた。政府にとっての自衛隊と国民にとっての自衛隊とは異なる存在だった。それはさかのぼれば自衛隊の成立理由に根拠を持つのであろうが、現在まで継続している事柄である。

 

 自衛隊がどのような出生の秘密を持つものであれ、国家の軍隊として存在し、国家の命令によって戦場に出掛けて行こうとしていることは疑いない。国家の命令として彼らは戦場におもむくのであるが、国民との連帯感も共感もそこにはない。政府は自衛隊を戦場に送ることで、それを作りだそうとしているのかも知れないが、それは倒錯した考えだ。危険な考えである。戦争を経験させることで、自衛意識の合意を作ろうとすることだからである。

 

  【3】反テロ戦争が告知しているもの

 自衛官が命を標的とする戦場へ行こうとしているのに、国民の視線がこんなにも冷ややかなのは異常なことであるが、この理由のひとつはアメリカのアフガン(タリバン)への報復戦争について国民がその正当性に多くの疑念を持っていることがある。これは湾岸戦争時と比べてみればあきらかである。

 

 クエートを侵略したイラクへのアメリカを主導とする戦争についてはアメリカの行為の正当性を疑うことは難しかった。イラクの侵略からクエートを解放するという大義名分は大きな力だった。また、コソボをめぐるアメリカ軍やNATO軍の空爆は民族浄化という惨劇を止める行為だと言われたが、まだ、一定の説得力を持っていた。アメリカ軍のタリバン攻撃はそれらとは違って疑念は強い。アメリカの反テロという大義名分にもかかわらず、報復戦争はそれほどの説得力がない。

 アメリカの呼びかけに各国の政府は賛意を示し、アメリカの報復戦争に支援を声明している。しかし、政府の対応とは国民の反応は違っている。

 アメリカの軍事行動支援の呼びかけに即応した、小泉首相や政府の自衛隊派遣の決定は国民的な説得力を持っていない。何故、自衛隊を派遣する必要があるかの説得力のある発言を小泉首相からも政府首脳からも聞いたことはない。そうであれば、国民が冷ややかな態度をとるのも当然である。

 自衛官への同情はある。僕もこんな環境で戦場近くにやられる自衛官に同情をしている。恐らく彼らがそれ以上に嫌なことは国民の無関心であると思う。それは政府の責任である。本当に政府は自衛隊を戦場に送ることがどんなことか分かっているのだろうか。

アメリカ国民の報復戦争への反応と日本国民のそれとが明瞭な差があることは明瞭なことだ。日本国民の大半は9月11日の事件を批判しているし、テロについて同じである。だからといって日本国民はアメリカ軍の報復行動を支持しているわけではない。アメリカ現在の戦争に対する本格的な批判も出てきている。アメリカ人は想像もしていないかもしれないが、この戦争の結果に関係なく、アメリカ国家と戦争方法への批判は本格化すると思える。

 個人的な感想として言えば、僕はどう考えてみてもハイテクを駆使した兵器によって、相手を虫けらのように攻撃する現在の戦争のあり方を支持することはできない。これは戦争の正当性や必然性とは別のことだ。

 

 確かに戦争は自己の陣営の被害を少なくし、相手に多くの打撃を与えようとするものだ。味方の死傷者を最小限にしながら、相手を殺そうとするものである。だが、片方がハイテクによって高度化した兵器を駆使して相手を一方的にたたきのめにする行為は、もはや戦争という概念を超えているのではないか。それは《戦争》という概念の中に含まれていた殺人行為の正当性という範疇を超えているのではないか。

 

 ハイテク戦争は人類が戦争という中で生み出してた極限的退廃である。それは戦争の名によって行われる一方的な殺戮であり、殺人であって、相手の命を自己の命と同等のものと考えることから無限に離れていくことである。アメリカは原爆を投下した国家であるが、この系譜のなかにハイテク兵器の使用はある。非戦闘員を殺戮することと同じことを高度化した兵器によって戦闘員に行っているのではないか。アメリカは兵器の高度化によって、どの国も対抗できない強力な軍事国家になった。しかし、戦争への反省だけは忘れてきた軍事国家であり、もはや敵国の人間も自己と同等の命を持つ存在だということを忘れるようになった国家でないか。

 戦争が命のやりとりなら命の重さを自覚せざるをえない。それが戦争の中の救いであるが、アメリカ軍の戦争方法はそれすら忘れさせるものだ。戦争は一つの交通であった。そこでは交通がもたらす健康さも恩恵もあった。戦争が人間の間の交通であるとき、そこには人間的なものは存在した。文学も生まれた。

 

 アフガン戦争の結果がどうであれ、アメリカが現在とっている戦争方法はこれまでのこうした戦争概念を超えるものであり、そのもつ非人間的で退廃的な姿を露呈するものだ。人間が兵器を使うのではなく、兵器が人間を使うような現象になった時代の戦争について、僕らは批判をやらなければならない。それはアメリカへの批判である。 戦争に対抗する戦争という循環の中で兵器が高度していった極限をみなければならない。反テロの正当性からあふれ出てくるものとしてこの現象への批判はある。戦争手段の発展がはからずも内包したものは、戦争を人間の命の重さから遠ざけていくことであるが、アメリカ軍の戦争方法はその極限にあるのだ。

テロへの批判とは別の形で進行するアメリカの戦争への批判の中には、その戦争方法への批判がある。その批判の目はとても重要なものであって、本格的な戦争批判と結びついていくかも知れない。僕らはアメリカが積み重ねてきた戦争手段の発展が、戦争の性格を変え、戦争の非行性を一層発展させたことを批判しなければならないと思う。

 これは僕の妄想なのだろうか。アメリカ国家への批判が必然のようにナショナリズムからする批判に落ち込んで行った枠組みを脱却し、普遍的な場所で展開できる契機を生み出しているように思える。かつてのアメリカ批判がナショナリズムという枠組みに落ち込みどうしても普遍性に行き着けなかった限界を超えられる場所が見えてきたのではないか。ナショナリズムとアメリカの普遍性との対抗関係になってしまう枠組みを超えた場所で、それこそ普遍な場所でアメリカ批判が展開されるだろうが、その中心に《戦争》の問題がある。戦争こそはアメリカの強さであるが弱さでもある。

 テロと戦争という枠組みはアメリカの普遍性と民族主義という思想的対抗枠の中にある。民族や宗教の形をとった小さな共同体のアメリカという大きな共同体の対抗関係の構造を超えるためには、これまでとは違うアメリカの批判が不可避である。 

 アメリカのリベラルデモクラシーに対抗する考えはマルクス主義か、民族主義しかなかった。それは冷戦やテロリズムも含めた対立関係を形成してきた。しかし、これは対抗思想の限界を持ち、アメリカのリベラルデモクラシーの矛盾を止揚するものではなかった。アメリカのリベラルデモクラシーも普遍という名のナショナリズムであるということを批判できなかったのだ。

 これを本格的に批判する思想はいくつもの要素から成ると考えられるが、戦争論はその大きな柱である。僕は太平洋戦争の肯定(ナショナリズム)の立場からのアメリカ批判を超えて、日本の敗戦とそこから得た戦争批判を今こそアメリカ批判に結晶させることができる段階にきたのだと思う。戦後の長い歳月の中で蓄積されてきた国民の非戦の意識を世界思想として展開できる時期にきたのだ。米ソ主導の戦後の世界思想との拮抗はアメリカ批判において場を移している。戦後の国民的な非戦意識を世界思想として展開するという独立左翼の思想は舞台を獲得できるかもしれない。

 アメリカの報復戦争への疑念が自衛隊の海外派兵への疑念と結びついている。国際貢献というがそれは色あせた言葉である。一体自衛隊は何をしにいくのだ。海外派兵し、まがりなりにも戦争に参加したという実績を作りたいだけではないのか。自衛隊の軍隊としての認知を得たいためである。それは政府の悲願であっても、国民の悲願ではない。ここには湾岸戦争におけるトラウマがあると言われる。湾岸戦争時と違って、戦争への参加が国際貢献などといわれる時代ではない。どうみても時代を読み違えている。本当に難民支援をしたいのなら、別に自衛隊を使わなくてもよいのである。自衛隊の持つ機能を絶対的に必要とはしてはいない。

 正直いって僕は政府が国民のアメリカの軍事行動への疑念を受け止めないで、自衛隊をその支援に行かせることで、国民意識とさらに乖離させてしまうことを懸念する。自衛隊はかつての皇軍の伝統を引き継ぐというより、アメリカの軍隊を模倣することで出発してきた。ということは自衛隊はアメリカ軍の姿を真似るのであり、その戦争手段を超近代化していくことになりかねない。未来の自己の姿はアメリカ軍である。ハイテク兵器で武装され、兵器の高度化とともに相手の人間としての姿が消えて行くという悲劇的な軍隊になりかねないのである。国民意識から断絶している自衛隊は軍事機能だけが発展するというとんでもない軍隊にすらなりかねない。軍事機能の必要性を判断する基盤のないまま、かつてに増殖することは危険なことだ。

 

【4】自衛隊と国家の改革は不可欠である

自衛隊はアフガンでのアメリカの軍事行動の支援に行く。すでに述べたようにアメリカ軍の軍事行動への日本国民の疑念が自衛隊の行動に対する視線になっている。自衛隊への国民の冷ややかな視線はそれだけではない。そこには自衛隊の歴史と現在への国民の意識がある。世界に国家の間の摩擦や対立がないのではない。国民はその対立や摩擦が戦争に発展していく必然性を意識してはいない。憲法第9条に規定されているような非戦条項が国家間関係として現実化している。その方にリアリティを感じている。

 冷戦の終焉後、アメリカは仮想敵国の設定に悩んでいた。ブッシュ政権が想定していたミサイル防衛構想は架空の仮想的構想であって現実性を欠如させていた。このブッシュ政権にとって同時多発テロは仮想敵国を発見する格好の材料であった。彼はテロを新しい戦争として《仮想敵》の喪失という悩みを解決した。軍事国家であるアメリカにとってそれは必然であっても、自衛隊はそれを真似る必要はどこにもない。反テロという風潮に乗って《仮想敵》の問題を解決しようとしても、国民の支持を受けるはずはない。

 国民国家は仮想敵国を失い、軍隊の存在が根拠を失っていくことをこそ、確かな現実にすべきなのだ。その意味で日本はアメリカのような軍事国家を模倣する必要はないし、国民国家にふさわしい軍隊をつくらなくてもよいのだ。軍隊のいらない現実を生み出すことに努めるべきである。国際的な警察機構としての軍事の問題、そこでの日本の役割は別のことである。これについては稿を改めて論じたい。

自衛官に対する国民の冷ややかな視線にはもう一つ国民と国家の歴史的な関係がある。かつての皇軍は現在の自衛隊に比べれば、はるかに国民的、大衆的基盤を持ってはいた。その意味ではかつての皇軍の方が自衛隊よりは国民の軍隊であった。しかし、それは天皇の軍隊であった。ということは国民の上にそびえ立つ閉じられた存在であった。国民の軍隊という名目はともあれ、この超越的な存在が国民にどうふるまったか、戦争末期から敗戦にかけて国民は目の当たりにした。沖縄で満州で軍隊の国民への対応に国民は不信を持った。それは軍隊の閉じられた性格からくる独善と秘密性にあった。

 これはかつての軍隊にとどまらず、日本の官僚組織に共通するものであった。軍隊は日本の官僚制(肉体としての国家)の閉じられた性格を集中的に表していたのであって、そのお上的な性格をつぶさにみた。それは日本の国家が天皇制的な宗教性(専制)に包まれ民主主義や自由という規範を自立的なものにしえなかったことである。そこに強さと弱さの双方をみたのであるが、国民はそれに不信の目を向けてきた。国民の軍隊への警戒心にはこれがある。

 

 だから、自衛隊がかつての皇軍のような役割になることを警戒している。これは軍隊が閉じられた官僚組織として国民の外に自己展開していくことである。日本の官僚組織だけでもうんざりしているのに、これに軍隊が加わるのは御免だと思っている。国家が憲法に規定され、憲法が非戦条項を持ち、自衛隊がそれに反しているからではない。それもなくはないが、実質的な主権在民の国家ではない現実のなかで、名目だけの国民の軍隊に警戒しているのである。戦後の日本は天皇の国(神の国)から、主権在民の国家になった。それは名目であり、実質は違う。そうであればこそ、国民の警戒心は意味を持っているのだ。

 

 軍事という機密を多く持つ存在が、閉じられた傾向を持つ国家の中であるとき、それは国家を一層閉じられたものにしていく役割を担うことになる。国家が開かれ、国家的な重要決定には国民の意志が反映されるというシステムが作りだされ、それが常識化しない中ではそれは国家の秘密化を推進する。国家は国民の管理を強め、その支配力を強めようとする傾向を持つが、軍事の秘密性はその根拠になる。これは国家を開き、国民国家としての実質を形成するという僕らの課題とは逆なのである。

 自衛隊を統帥する力が内閣にある、シビリアンコントロールの下にあることなど誰もたいして信じてはいない。外務省の官僚たちの抵抗をみながら、僕はあれが防衛庁ならどうなのかと想像する。日本の官僚組織が国民国家の組織であり、国民に主体があるのだなどと思っていないことは明瞭である。

 本当に軍隊が動きだせば、現在の政府などすぐ手におえなくなる。かつてなら、皇軍は天皇の軍隊であり、天皇の統帥下にあるといえた。まさか、自衛隊が再び、天皇の軍隊になることはあるまい。

 そうすれば、僕らは直接民主主義的な力が軍隊の統制にも働くことを考えるしかない。それは国家を開き、重要な国家的決定に大衆的、国民的意志が反映する機構を作り出していくことであるが、そのシステムの形成とともに、国家の閉じられていく傾向にたいする不断の戦いを必要とする。国家を開かれたものにする運動、国家の現状に対する不断の異議申し立てを運動として形成し続ける必要がある。国民的な運動を「党派のために」でなく、国家を開いて行くために必要としているのだ。国民の意志や意向が国家の重要決定を決めて行くようになるためにこと、国民的な大衆的運動が大切である。意志の伝達や表現手段は進んでいる。運動の形態や方法はかつてとは大きく変化していくと思う。それが、直接民主主義的なものの反映としてあり、国家を開いていくこと、国家組織の不断の改革をめざすことは変わらないはずだ。

自衛隊というか、軍隊の一番厄介な問題はそれが多くの秘密維持を機能として要求することだ。それゆえにこそ軍事機構は秘密主義と閉じられた性格を持つ。だから、こうした傾向の持つ矛盾を解決する機構をつくりだすかを考えるしかないが、それは国民的な運動なしにできない。日本の官僚機構の持つ閉鎖性を思うとき、僕は暗い気分になるが、自衛隊が合法的な官僚機構になった場合に、その秘密主義的傾向を歯止めするものは現在ではどこにもみあたらない。官僚組織を縦型組織から横型組織に組みに変えていくこと運動を進めるしかない。国家を開くとはそういう構想のもとに不断の運動でそれを実現するしかない。

 

 それができないのなら自衛隊は合法的な官僚組織にならないほうがよい。僕がここでいう合法的とは法制的な意味ではなく、国民的合意をえるという意味である。国民の意志とそれに基づく合意が、自衛隊の存在を制限し、軍隊としての性格を解消する方向に向けさせるのがよいのだ。

軍隊はその成員に死を覚悟させる。それは誰の意志においてか。天皇の意志でないなら、国民の意志であるほかないはずだ。国民は自衛隊に死の覚悟をでなく、それを薄めていくことで軍隊としての性格を薄めさせるべきだ。それは、日本がアジアの近代史の中で果たしてきたことを振り返ればそれは当然のことである。それはアジア諸国との信頼関係を築くことでもある。この間の靖国問題や教科書問題でのアジア諸国からの視線を忘れるべきではない。軍事国家であるアメリカの視線ではなく、アジア諸国の視線こそ意識すべきなのだ。それは僕らの国家を開いていく運動の中でしかできないし、その運動の対象として自衛隊が大きく浮上してきたことを知るべきだ。アジア諸国民から太平洋戦争の総括を求められていることを自衛隊が戦争を解禁したことと結びつけながら、解決していく課題が目の前にある。



★同じ著者による論文★

そして戦争がやってきた

「歴史の中のテロリズム」 http://www.zorro-me.com/2001-10/ajok011009.htm

三上氏との対談   三上 治 氏との対談 (雑誌 論座 叛乱者グラフィティ 2000年7月)