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歴史の中のテロリズム イスラム原理主義は対抗的勢力を必要としているのであって、 それはアメリカが対抗勢力を必要としていることと呼応する 三上治@2001年10月9日 【1】2つの死の衝撃 限りがないから、もう寝よう、寝ようと思いながら、とうとう朝まで見てしまった。例の朝生テレビではない。11日の夜のテレビである。正確には12日の朝ということになるのだろうが、世界貿易センタービルに飛行機が突っ込む映像から目が離せなかった。この事件について瞬時に思い浮かんだことはいろいろあったが、それらは切れ切れの感想というべきものであった。要するにこの事件を解釈したり、認識したりする言葉がなかなか発見できなかったのである。この事件については様々の言葉が流布されている。「これは新しい戦争である」という言葉はこの事件に与えられている言葉であるが、どうもその内容はもう一つはっきりしない。わかったようでわからない言葉である。衝撃の大きさを「戦争」という言葉であらわしたい気持ちはよく了解できた。しかし、何と何との間の、どういう戦争なのか、というともう一つはっきりしないのである。どうもこれは僕だけのことではないと思う。 この事件から想起したことは二つあった。一つは原爆投下での死ということである。世界貿易センタービルに出勤したいた人々や、飛行機に乗り合わせていた人たちが事件に巻き込まれ不慮の死に遭遇したことをまずそのように思ったのである。この事件からアメリカではパールハーバーを思い出した人が多かったらしいが、僕は原爆の投下による広島や長崎の住民の死を連想した。 広島に原爆が投下される前日までの日常を描いたドラマがある。題名もドラマの内容も正確には思い出せないのであるが、確か大竹しのぶが出ていたテレビドラマだったように記憶している。原爆によって突然失われてしまった生活と生命をその前日までの日常生活を描くことで展開していた。このドラマでは直接原爆の投下の場面はなかった。原爆の投下で一瞬の内に消え、人々の生が中断してしまう前日までの場面を淡々と描いていた。 僕はこの日常生活や存在が突然のように消えてしまったことを想像したとき、原爆投下の持つ真の恐ろしさを実感した。それは子供のころ見た原爆映画よりもはるかに恐ろしいことだった。何の予測も予知もなく、突然のように何かが襲い来て、人々の日常生活や生命を中断させてしまう恐ろしさをそこで感じたのだ。 原爆の投下で突然生命を奪われることは戦時下であるから、それとはこのテロでの死者は異なる。そういう見解のあることを十二分に理解している。けれども、原爆による住民の日常生活の中断が、戦闘員の間の殺し合いという歴史的な戦争のルールを超えていたことは疑いない。非戦闘員を殺しの対象にしないという戦争の歴史的ルールがここでは破壊されていたのだと僕は考える。 この事件によって日常生活と生命を中断されてしまった人々のことを考えるとき、僕が原爆投下での死ということを連想したのは荒唐無稽なことではないと思う。この事件によって突然、日常生活と生命を中断されてしまった人々の運命を考えるとき、そこにこの事件の持つ本質的な非行性を見るのである。それはテロリズムの歴史的概念や規範も超えたテロリズムのもたらす悲惨である。原爆が戦争の非行性を象徴するように、この事件はテロリズムの非行性をあらわす。この事件を通して、テロリズムが旧来の規範さえ超えてしまったことの現在性を認識することを僕らに迫る。オウム真理教によるサリンの散布との同一性をここに見いだす。そういっても間違いではない。 闘争対象とは無関係に存在する住民を殺戮の対象とするという従来からのテロリズムからの逸脱という同一性がここには存在する。それは原爆が戦争の新しさを象徴したように、テロリズムの新しさを象徴するのかもしれない。戦争もテロリズムもその本質(非行性)が露呈される時代に僕らは生きている。その非行性にたじろがずに向かい合わなければならない時代にいる。戦争とテロリズムの批判を同時的に、しかも根源的に展開する必要があるのだ。 この事件にはもう一つの死者が存在している。言うまでもなく飛行機をハイジヤックし、自爆した人たちである。彼らはテロリストといえばテロリストであるが、自爆するという特異さがそこには存在している。僕はこの死者たちから特攻を敢行した太平洋戦争の若者たちを連想していた。確かに、太平洋戦争でアメリカの戦艦に特攻をした若者は、軍艦という対象を攻撃したのであって、無差別に住民を攻撃したわけではなかった。 しかし、自らの死を担保にしたという共通性がある。戦争は自ら生き延びるために他者を殺すことであって、自死を組み込む戦術はこれまでの戦争のルールを超えていた。戦争の基本的な戦略にそれが組み込まれることはそれまではなかった。 それは特攻という形態が世界の人々に与えた衝撃だった。自爆した若者たちはテロリストである。テロリズムは闘争の極限的な手段ではあるが、自死ということを前提として組み込むとき、それは闘争というルールを超えている。彼らもまた、特攻隊として死んだ人たちと同じように自死ということに苦悩し、さまざまのことを考えたに違いないのである。 それは戦争や闘争による一般的な苦悩ではなく、これまでの戦争や闘争のルールを超えたところから発生する苦悩だった。それは戦争や闘争の中の死一般としてかたずけることなく、その苦悩や行為の意味を考えるべきである。 人間は生き延びるためにこそ、その不可避性のためにこそ、戦争や闘争を行ってきたのであって、死のためにそれらは存在したのではない。それは戦争や闘争が必然のように人々に死を強いるということとは次元をことにするのだ。 戦争やテロリズムが現在では歴史的な規範を超えて、その本質を露呈させている。僕は特攻の死者もこの事件の自爆者も、この現在的な戦争やテロリズムの中の死としてあり、そして歴史的規範を超えたところで発生する悲惨さという共通性を有していると思えてならなかった。 僕はテレビの画面をみながら、そして新聞を読みながら思ったのこの二つの死を歴史の中の死として包括して理解できないかということであった。この二つの死を包括して理解する考えはないのだろうか。戦争がそうであったように、テロリズムが歴史の規範を超え非行を露呈させていること、その非行性を象徴する死が二つの死ではないのか。僕はそんなことを考えた。原爆投下による人々の死と特攻による死が、戦争の非行性をあらわすように、この二つの死はテロリズムの非行性をあらわすのではないか。このテロリズムによって日常生活や生命を中断された人々を悼むことと、この原因をなしたテロリストの死を悼むことは矛盾するというかもしれない。何故なら、この事件の死者たちを悼むことはテロリストを憎み指弾することであるからだ。このことを否定するわけではない。 けれども、もう少し広い視野で、歴史的に僕らがこの事件を考えるとき、こういう視点を必要とするのではないか。確かに、これはこの事件に僕らが距離を持っていること、そこから傍観者的にならざるを得ないところから発生することと言える。この事件に怒り、報復にいきり立って人々からは傍観者のたわごとのように聞こえるのかも知れない。だが、傍観的な悲哀と冷静さを持ってこの事件をみるほかない僕らには、それゆえに見えるものがあるのだ。そこからこの事件を考えることの意味は存在する。 【2】これは 「戦争」ではないこの事件のあと、アメリカのブッシュ大統領はこれは戦争だと言った。これはテロリズムというべきである。戦争と言いたい気持ちはわかるが、それは誤りである。それはこの事件の認識そのものを誤るだけでなく、その対処も誤るものである。従来のテロリズム(闘争の手段としてテロリズム)の概念を超えたテロリズムの衝撃と人々の怒りを組織する上において「戦争」ということは便利なものかも知れない。 この事件を「戦争」というか「テロリズム」というかはさして重要ではない、そんなものは言葉のあやだというかもしれない。しかし、そうではなく、この事件の本質的な分析のためにも、歴史的な対応のためにも、これは大事なことである。 戦争は戦争の根底にあった歴史的概念と規範(ルール)を絶えず破壊してきた。第二次世界大戦は戦争が戦闘者の間で展開される戦闘行為であり、非戦闘員の殺戮などを原則として含まないという戦争の概念や規範を解体させた。それは無差別爆撃やホロコーストのような現象が存在したことであるが、戦争に伴う正義の概念をまた大きく変えた。 戦争自身が「道義」や「義」という概念を失わしめる事態を発生させたのである。同じように闘争の手段としてのテロリズムも歴史的ルールを超え、闘争が内包していた「義」や「道義」も失う事態を出現させる。僕らはここでサリン事件を想起すればよいのだが、闘争の内包している「義」や「道義」をテロリズムは失わしめる。 アメリカのブッシュ大統領はこのテロリズムの現在的な性格を戦争というように概念化している。この事件はテロリズムが持っていたルールをも破ったテロリズムであるが、それは戦争ではなく、最後段階的なテロリズムである。
アメリカがこの事件に怒りテロリズムへの報復を展開しようとすることはわかる。僕らは報復反対と言っても意味はない。でも、それは、あくまでテロリズムに対してであって、これを「戦争」と規定し、戦争で応えることではない。 それは同じことがなされるにしても、その意味や今後への影響は異なって出てくるのである。この事件を従来の枠組みを超えたテロリズムとして認識し、反テロリズムの行動を組織するというのなら国際的な合意は得られるであろうし、世界的な同調も得られると思う。 しかし、アメリカがこれを戦争として規定し報復戦争を行うなら事態は別のものに変わっていく。これは明らかである。それはこの事件への対処としては逸脱であって、やがてはアメリカへの同調を離反させていくことになる。戦争はその対象とする国家との間の問題であって、この事件が特定の国家によってなされたものでない限り、そういう規定は意味をなさない。 ブッシュ大統領の言うような曖昧な戦争規定のまま、国家的な軍事機構を発動させ、その力でテロリズムに対応することは、結局のところ、このテロリズムを逆に戦争という地位に押し上げるのである。それが何を意味するかブッシュ大統領は考えたことがあるのだろうか。 僕はこの事件を「戦争」として認識するのと、テロリズムとして認識するのとでは大きく違うことを強調したい。この事件を戦争というのはこの事件の性格を曖昧にするものだ。これまでのテロリズムの概念を超えたテロリズムであるところにこの事件の特異性がある、それを戦争と解釈してはならない。このテロリズムの特異性は住民の無差別殺戮と自爆という二つにあるが、これをテロリズムも超えたテロリズムとして批判するのは、テロリズムとしての正当性すら失っているということを意味する。アメリカがこれを戦争として対処し、戦争として対応するとき、逆説的ではあるが、このテロリズムは戦争として正当性を得ることになる。そういうことが考えられる。 つまり、聖戦の意味を獲得することになるかもしれない。それはアメリカの意図しなかった方向に事態を発展させる。この事件の持つ非行性を明瞭にすることを《戦争》ということが曖昧にしていくことになる。この事件の非行性はどこにあるか、この事件が何を原因して出てきたかが、解明されないまま《戦争》が煙幕をかけて行くように作用する。 それはアメリカにとっても、このテロの実行者や背後の人々にとっても不幸な結果としてしか現れないのである。追悼は報復戦争ではなく、この事件の本質と非行性をはっきりさせ、この批判を全世界的なものにすることである。そこからテロリズムの否定の道が見出だすことだ。 アメリカは「正義の軍事力」だけが、テロリズムの根絶を可能にすると考えているが、それはアメリカ人の宗教である。それはテロリズムを抑止するにしても一時的なものだと考えるべきである。 アメリカがこの事件を極限的なテロリズムとして認識することは、それへの軍事的な対処だけでなく、なぜこうしたテロリズムが出てくるかの認識をも生むと思う。最後的な形態を取ったテロリズムがなぜ発生したのか、それを生み出している基盤は何かへの認識が出てくると思える。本当にテロリズムと戦いたいのなら、テロリズムの現在についての認識や理解が前提とならなければならない。テロリズムとの戦いは本質的には思想的な戦いであって、それが原則になければならない。テロリズムとの戦いが軍事的行動を含むにしても、それは不可欠なことなのだ。 「戦争に対抗する戦争」ということは、結局のところ戦う対象を曖昧にし、自己の行動の意味を曖昧にしていくのである。こうしたテロリズムに対して、国家が軍事的行動も含めた対応をすることは間違いではない。なぜなら、それは現在的な国家の機能の一つとして考えてもよいからだ。犯罪が高度化し、それに対する軍事を含めた行動が必要なら、そういう対処をすればよい。それが何に対する行動かを明瞭にしておく必要があるだけだ。 それは《戦争》に対応する戦争とは別のことである。このことは、国家が《軍事》を必要というとき、どういう根拠においてか、どういう必要性においてかを厳密に検討することと同じである。 僕はアメリカがこの事件への対処として、軍事行動を取ることを批判しない。しかし、それはテロリズムへの対処の一つとしてであって、報復戦争として軍事行動なら支持しない。この事件を戦争として認識することはまちがっているし、そこから対応策として戦争を展開することは間違いであると思っているからだ。それはこの事件の根本的な解決を曖昧にしていくのである。 【3】 二つの賭け自爆したテロリストたちが、どういう理念と目的でこの行為を展開したのかよくわからない。イスラム原理主義の一部のメンバーがそれをやったのではないか。オサマ・ビンラディンが影の指導者らしいということくらいしかわからない。これもアメリカ側からの情報としてあるものからそうだろうと判断しているに過ぎない。本当のところはよく分からない。ただ、飛行機をハイジャックし、意識的に世界センタービルやペンタゴンに突入したのは事実らしいということだ。だから、これがテロリズムとしてあったことは推察できる。 彼らはどのような目的と理念でこの行動を展開したのか。結局のところ推察するしかないが、彼らが無差別殺戮と自爆を含めて行ったこの行為は、彼らの中ではこれは《戦争》として考えられたのではないか。《戦争》として位置づけることで、無差別殺戮と自爆ということも正当化されると考えていたのではないか。この行為が《戦争》として位置づけられること、そこから《戦争》がはじまることを期待しているのではないか。 アメリカの報道のいうように、この背後の指導者がオサマ・ビンラディンならば、イスラム原理主義が《戦争》を通して共通の敵を持つこと戦略として想定していたのではないか。これは国家間の戦争ではなく、宗教的な世界的戦争であり、イスラム教対アメリカという図式が政治戦略としてシナリオ化しているといえるのかもしれない。 もし、このテロリズムがオサマ・ビンラディンによって指導されたのなら、彼の中には二つの間で政治的な賭けがなされたのではないか。その一つはこのテロリズムによって世界的に孤立するかも知れないということである。その行動の非行性によって世界的に孤立するかもしれないということだ。もう一つはこの事件を《戦争》に拡大し戦争が開始されるということである。これはこの事件の非行性を曖昧にし《戦争=聖戦》の中で、合理化されていくのではないか。戦争に発展させることで孤立を免れると考えたのではないか。 この二つの賭けは結局のところアメリカの対応如何ということになると思う。 アメリカが反テロリズムとしてこの事件への対応を貫くのか、それとも戦争として対応するのかでこの賭けがどちらに転ぶかは決定されるのではないか。 オサマ・ビンラディンにこういう賭けをしいているのはイスラム原理主義の内部矛盾であるように思える。僕はそう推察する。恐らくタリバンはイスラム原理主義の実現であるとともに、それゆえにその内的矛盾を激化させているのではないか。イスラム原理主義はイスラム国家の内部でさまざまの亀裂を起こしているだけでなく、イスラム原理主義という宗教が現在の世界そのものと矛盾を意識させているのではないか。これは、現在への批判的力、対抗的力としてイスラム原理主義は強力であるが、それが国家や人々の生活指導の原理として機能しようとするとき様々の矛盾に遭遇しているということである。イスラム原理主義はアメリカやイスラム国家に抑圧されているからではなく、その理念と国家や生活との間で矛盾を再生産させ、拡大しているのではないか。対抗勢力、つまり《敵》の存在によってしか解消されない内的矛盾を抱えているのではないか。それはイスラム原理主義が《軍事的解放》を路線としてきたことの行き詰まりと見てもいいのだ。イスラム原理主義は対抗的勢力を必要としているのであって、それはアメリカが対抗勢力を必要としていることと呼応する。 僕はイラン革命の後のイスラム教の動向に注目して、そういう分析をしてきた。イラン革命が革命後、自由や西欧との対応を模索するほかないところに反転しているのは根拠があるように思う。イスラム原理主義の内部に危機意識が浸透していて、それには戦争が、つまりは対抗力の出現がその救いになると考えたのではないか。アメリカには対抗勢力の出現が救いになるということと奇妙だが、一致する。対抗勢力を必要とするという意味ではアメリカとイスラム原理主義は同一の環の中にあるのではないか。それから、疎外されているというか、傍観者的な場所に僕らはいる。それは歴史が僕らに強いている必然であり、この環から疎外されていることは可能性であるのだ。 こういうことを考えるとどうしてもイスラエルとパレスチナ問題に目が行かざるをえない。イスラム問題の淵源にパレスチナ問題があることはいうまでもない。歴史的にみれば、イスラエルとパレスチナの和平問題は最終段階にあるというべきであろうが、この問題は正直いってなかなかわからない。 アラファト議長率いるPLOとイスラエルの間に成立した暫定自治政府が実質的に機能せず解体に至った過程をどう理解するかという問題がもう一つわからない。僕はこの問題で一方的にイスラエルやアメリカを批判するだけではどうもラチが明かないように思ってきた。ここにはPLOを含めたパレスチナ内部にも和平についての対応に問題があったように推察している。確かに、アメリカやイスラエルの力の政策ということがここには存在した。しかし、問題をそれだけに還元してはしかたがない。 パレスチナ内部にパレスチナ問題の解決をめぐる内部対立があって、それが和平問題をこじらしている要因のひとつを形成している。今回の事件にパレスチナ問題が影を落としているとすれば、激化するイスラエルとの対立である。結局のところ、軍事的な解放か、和平かしか道はない。軍事的な解放に限界を感じたからこそ、和平への道は考えられたのではないか。僕は現段階ではこの問題については、結論を保留しているところがあるから、あまり先に進みたくはない。結論めいたことは言いたくないのだが、そういうことを考えている。 これを淵源していくと《民族解放運動》や《宗教解放運動》が抱えていめ現在の問題に行き着くかも知れない。帝国主義が巨大な力としてあって、それとの対抗関係の中で、運動を形成しえた段階から、自らが国家としてどうあり、どのような統治力を持つかを問われた時の困難さである。僕はイスラム原理主義が試されているのもこのところであり、その問題の不幸な表現として今回のテロリズムを認識している。つまり、今回のテロリズムは武装解放闘争の内的矛盾の表現という側面があるのだ、と思う。
【4】 二つの《軍事》を区別して この事件に対する日本政府の対応はどうであろうか。日本政府はこの事件をテロリズムとして認識すべきであり、ブッシュ大統領のいうような戦争として解すべきではない。そこが明瞭ならば、日本政府の対応もはっきりするはずだ。ビンラディンが仮にテロリズムの指導者であるとすれば、この事件をアメリカとイスラム教の《戦争》の端緒として描いた彼のシナリオに乗るべきではない。アメリカがそうであるとしたら、一線を画して反テロリズムとして対処するという政治戦略をはっきりさせるべきだ。そうであれば、アメリカの軍事行動もどういう性格のものかはっきりさせられる。 この事件を契機に自衛隊の海外派兵を実現するという日本政府の意図ははっきりしている。これを契機にして自衛隊に戦争を経験させたいのであり、自衛隊を国軍として認知させたいのである。その意味では日本政府にとってブッシュのいうようにこれが戦争であることは都合がよいのである。くりかえしいうように、この事件は戦争ではなくテロリズムであり、テロリズムの目指すものとしてこの事件の戦争化があるように思える。それはアメリカの対応によるのである。 日本政府に欠落しているのは、この事件の正確な認識である。正確な認識のないところから、明瞭な対応策が出てくるはずはない。アメリカがテロリズムに対する軍事行動を展開し、その後方支援として自衛隊を使うというのならよい。なぜなら、それはテロリズムを封じこめるための軍事行動であり性格がはっきりしているからだ。しかし、アメリカがこれを戦争として認識し、報復戦争を展開するとき、それに追随して自衛隊を海外に派遣するのは間違いである。それこそ馬鹿丸だしである。 このテロリズムのシナリオに乗って、アメリカが報復戦争に入るのなら日本はその外にあるべきであり、その両者に否定の声をあげるべきだ。それは結局のところアメリカもテロリストやその背後の勢力も問題の解決ではなく、再生産に走らせるからだ。日本はアメリカとの協力をテロリズムに対する反対行動とすべきであり、軍事行動も含めてその枠を保持すべきである。何故だろうか。 ここには現在の国家の問題がある。今回のテロリズムへの対処などのような機能が現在の国家には要求されている。地域紛争の解決などである。これは国連やその下での国際警察的な機能を国家が代行してになわなければならないということだ。これは国家の過渡的な任務なのだが、それはある。問題はそういう機能をアメリカが一元的に担っていることにある。そうであるがゆえにアメリカではかつて国家が必要とした軍事力(国家主権として力)と国際警察的な機能としての軍事力とが混同される。その歴史的役割は分離されて考えられたことはない。 今、国家が主権国家としての機能を整備するために必要とする軍事力と国際警察的な機能の分担としての軍事力があるのだとしたら、それは明確に区別すべきである。僕の考えでは日本は前者の軍事力は必要がないと思っている。そこでは憲法の理念は意味を持つし、それを生かしていけばよい。国軍としての自衛隊など必要はない。しかし、国際警察的なものへの協力部隊として軍隊が必要なら、その機能においてそれを作りだせばよい。目的と機能が明瞭ならこれは国民的な合意を得られる。過渡的な国家の役割としてそれを明瞭にすればよい。国連のような機関が世界警察的な機能を持ち、そういう役割を果たすとき、それとどういう協力関係を作るか考えればよい。それはアメリカとの同盟ではないし、協力ではない。 日本の保守政府はこの国際警察的なものへの協力ということをテコにして、本来の悲願である自衛隊の国軍化(国軍としての認知)を得ようとする。これは姑息というより、国家的な軍事力はどういう目的と機能において今、必要とされているかの基本的認識を欠落させた結果である。今回ような後方支援の目的での自衛隊の海外派遣は愚の骨頂である。 それは今回の事件の正確な分析とそこからの対応策がないからであるが、隠れた目的がチラチラするからでもある。今回の事件への対応のために、憲法が改正されなければならないというのは論外のことだ。憲法の規定は国家の間の戦争のことをさしているのであって、その議論と国際警察的なものへの協力の問題は次元が違う。アメリカは一体化しているが、本当はそこは問題なのだ。アメリカは国際警察的なものへの協力とか役割分担に非協力的であったし、それを大義名分として使うことはあっても、それを無視してきた。アメリカのその態度こそ問題をこじらせる原因でもあった。僕らはこの二つの《軍事》を区別して考えるべきだ。
【5】 リベラルデモクラシーの限界この事件を通して、僕が改めて思ったことは反米感情の強さということだ。アメリカ人の愛国意識がこの事件によって喚起されていることが伝えられる中で、世界ではアメリカ人には想像しえないような反米感情がある。それは間違った推察ではない。テロリズムへの衝撃とそれゆえに反テロリズムに同意していることと矛盾なく反米感情は根強くあるのだ。これは何を僕らに映しているのだろうか。僕はこう考える。それはアメリカ人が《正義の戦争》ということを疑っていないためではないか。アメリカにとって戦争は《正義》であり《良き戦争》である。戦争の持つ非行性について疑いを挟まない国民としてアメリカ人はある。アメリカ人のここからくる独善性への反感は広範に浸透している。アメリカはなぜ憎まれているかを反省すべきだと思う。今回のテロリズムはアメリカ人が、なぜ、憎まれるかを考えるいい契機でもある。 これは思想的にはリベラルデモクラシーの限界を象徴しているようにも思う。リベラルデモクラシーは普遍的理念であり、価値である。一般にそう言われる。だが、それは対抗関係の中で、そういう意味を獲得してきたに過ぎない。 ナチズムや皇国史観とそしてマルクス主義との対抗関係の中で、獲得してきたものである。リベラルデモクラシーは対抗関係の中ではなく、それ自身として普遍の意味が問われている。リベラルデモクラシーに対抗関係していた勢力や思想が力を失うなかで、リベラルデモクラシーが絶対的地位を得たように錯覚されている。それは普遍的理念としての地位が実証されたのだ思われている。 そうではなく、それはむしろそのことで相対化している。リベラルデモクラシーの内的矛盾や限界も見え初めているのである。リベラルデモクラシーの原理がどういう意味で真理であり、どこが限界を露呈させているのだ。対抗関係が遮っていた本質が露呈しているのであり、逆にそのことに一番気が付かないのがアメリカ人である。例えば、「戦争」についてアメリカ人はそれがリベラルデモクラシーに基づくゆえに、「正義の戦争」であり、「良き戦争」であるとしていた。ナチズムやファシズムとの戦争という対抗関係がそれを保証していた。だが、それが隠れみのになって原爆投下などの戦争の非行性を自覚せず済ましてきたことも確かである。リベラルデモクラシーの「民族」や「宗教」理解の限界、権力論の問題など矛盾も見えてきている。 世界のアメリカへの苛立ちや反感にはこれがある。反米感情はそこに根がある。アメリカに必要なことは対抗関係の中に築かれてきたリベラルデモクラシーの普遍的価値を絶対化することではなく、相対化してみることだ。それらを規範として成り立つがどうか、検討してみることが重要である。 この事件がイスラム教徒のアメリカ人への感情の露出であったとするなら、それはアジアの人々の日本人に対する感情であるかもしれないと想像してよい。この事件によって靖国問題や教科書問題が消えたわけではないのだ。この事件は僕らにとってはアジア問題であるという認識は大切なことである。アメリカ人のイスラム教徒への視線を日本人のアジアの人々への視線かも知れないと想像してみることは重要なことだ。(完)
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