「永田町番外地」連載スタート


 

 

宮崎学である。台風がくる夜は原稿がはかどるなあ。

ダカーポに政治ものを連載することになったのはまえにゆうたやろ。

文豪復活中のわしは、これと他にアサヒ芸能の事件ものしかやらない。

読みたいヤツはちゃんとこうてよむこと。一回目だけサービスしとくよって。

そのかわり、15日発売の「海賊」はちゃんと買わなあかんでえ。あはは。(9/11)


「一月二日の田中真紀子 」

 本来、政治とは凝縮された秀逸なユンターテイメントであった。テロリストや革命家がうごめき、官僚が鋭角的な思考を展開する。燎原の火の民衆の高揚がある。挫折があり絶望がある。そして希望と絶望が背中合わせにある。それが政治であった。

「情念』で果る政治  政治がこうした「肉感性」を消失させたのは何時頃からなのか。それは田中角栄の時代には明らかにあった。その後、中曽根康弘の時代にそれを見い出し得なくなる。何故だろうか。今回の連載で私が挑もうとするのは、この肉感性の消失ということである。数は少ないが、まだ肉感性の残影を残す政治家をとりあげ、政治を志したときの感情やその後の軌跡を辿ることで政治の肉感性の復権を図りたいと考える。田中眞紀子、野中広務、平野貞夫、白川勝彦とそのライバル筒井信隆などをスタートとして取り組んでみたい。

 どのような政権であれ、それが誕生するときには官僚そして諸々の政治勢力の思惑が民衆の思いを合めて交差する。

  政治や政治家を見る場合、例えば小泉政権の成立時にどのような思惑が働いたか。そしてそれは森喜朝政権や小湖恵王政権の成立時と比較して何が顕著な差異であったのか。この種の検証は欠くことができないと考える。

 同時に、その思惑の基底をなす政治家個人の情念について、実はそれが洋の東西を間わず既成のメディアが触れることのないブラックボックスとして存在するのであるが、その情念の濃淡こそが「政治」そのものではないのかと考える。この連載では、そのときどきの「政治情勢」の中で垣間見える個人の「情念」をテーマにして考えてみたい。こういう生々しいのもたまにはええやろ(笑)。

 既成のマスメディアが「派閥の動向」と「数の論理」で片付けているバーチャルな報道では、政治の実感はわからんのである。若い者の政治難れも案外こんなとこからきてるんちゃうか。個人と政治の関わりが、一体どんなもんなのか、それが語られない限り、政治がますます遠方にいってしまう。私もこの夏、選挙に出て、いろいろなことを感じた。しんどいけどおもろかったので、そのとき感じた「政治の肉感性」などを何人かの政治家の動きを通 じて考えてみたい。

眞紀子ブームはいつまで

 四月二六日の就任から五カ月余り、田中眞紀子の評判は相変わらずにぎやかである。就任早々、機密費問題で外務省官僚を斬り、拍手喝采されたことは記憶に新しいが、同時に多数の塞言で批判を浴び、常に罷免の危機にさらされている。四月の"オブチはオダプツ発言。に続き、七月の参議院選挙での"選挙妨害"のかどでは、ついに自民党本部から戒告処分を受けた。もっともこの件で党群馬県連に「眞紀子をいじめるな」と抗議の電話が・殺到しているそうで、まだまだ人気は安泰といえそうなのだが。 「失言が多い」「脇が甘い」など批判も浴びつつ、眞紀子は官僚と対決した一が、残念ながら破壊力はいまひとっである。

 外交機密費関連で眞紀子が展開した突出した批判は、テーマが官僚側が想定していなかった問題だったために一定の前進を演出できた。官僚はあらゆる問題をマニュアル化し、対策を万全にしているが、外交機密費はそのシミュレーションの外にあった。  官僚と対時する方法としては、「田中角栄的手法」と「菅直人的手法」がある。角栄的ちゅうのは、とにかくカネと恫喝で官僚をてなずけるもので、菅直人的ちゅうのは世論を味方につける、官僚に揺さぶりをかける手法。

 眞紀子はお父ちゃんと違って、菅的にやったのだ。外見はお父ちゃんそっくりだから、ワイドショーではウゲた。それを見た全国のおばちゃんが、ようわからん「国益」なんかを根拠に眞紀子援護をやった。まあおばちゃんは嫌いやけど、就任当初の眞紀子の破壊力はおもろいと思った。カネと票をたっぷりもっていて、官僚の顔色をうかがう必要のない希少な自民党政治家やから、ああいうことができた。人気の秘密もここにあるやろ。小泉が眞紀子をかばうのも自分の人気が眞紀子とセットなのがようわかっとるからである。

(以下はこうてよむように(^^))