個人情報保護法案に関する三上 治氏の考察を紹介する

 宮崎学である。

 神学的サヨク諸君のおかげで、ついに出世して「CIAのスパイ」に祭り上げられとるがな。モンダイは、この法案反対であって、一部に期待する有象無象諸君とのケンカではない。そっちはまあ、暇になったらまた別のところでやる。そらええけど、マジメにやっとる人に迷惑になるようではなんのための個人情報保護法案反対活動であったかわけわからんから、ちょっとやりかたを変えることにした。

 

  で、この法案についていろいろな文章を読んだが、一番感心した内容がこの三上氏の問題意識であった。

 すなわち、あの法案にサヨク的にただ反発するのではなく、いったいこの時代の何が読みとれるか、その法案を推進したいという官僚諸氏が、ただの「悪人」などではなく、それはそれなりにマジメな努力、だとしたなら「高度情報化時代」に対する、彼らと、我々の側のすれ違いはいったいどこにあるのか、を冷静かつ真剣に考えているからだ。

 これはまた立案した総務省の官僚をただアホ呼ばわりするのではなく、真剣な討論の相手として遇しようという姿勢だ。 それは、実は反対する側よりある意味で彼らが危機感を持っているという側面をキチンとみていこうということでもある。

 わしのやり方とは違うが、これが知性を肉体の道具とする(^^;)三上治の真骨頂だとおもう。

 ともすれば反対運動の立ち後れから、宣伝・戦闘ばっかりいそがしいて、こうした面がこれまでも弱かったし、それが今ひとつ、国民的なひろがりをもつような運動になっていかない理由なのかもしれない。わしはその意味でこの三上氏の文章はこの間の反対運動のなかでもとりわけ貴重なもんやとおもう。

 これまで電脳突破党などで反対を続けてきた諸君もひとつゆっくりでええから読んで自らの「想像力」を鍛えてみてほしい。別に、三上氏と同じ結論である必要はない。この氏の論考はひとつの試論であり、現在だれも実はようわかっておらん「高度情報社会」考の入り口にすぎないのだ。

 当Webサイトに論文掲載を了承してくださった三上氏にお礼を申し上げる。

                       2001年 9月4日  宮崎学

 

 

 

情報と想像力

 

三上   治 


 

[1] 法案に対する僕らの武器は「想像力」だけ

  詩と法律は言葉としたら対極にあるものかもしれない。それらが難解なものであることに変わりはない。そして、またその難解さも対極的なものであるというべきなのだろう。「個人情報の保護に関する法律」(以下個人情報保護法案)を一読した感想である。

 さっと一読すればわかることだが、ここには理解不可能なことが書かれているわけではない。書かれていることは極めてありふれたものである。「個人情報」の取り扱いが進展しているから、それを適正に扱い保護するルールが提案されているだけだ。 しかし、この法案の作成者は、そしてこれを立法化しようとしている政治家たちはどういう現実の認識とそれに対処する構想としてこれを考えているのだろうか、と思いめぐらすとさまざまの疑問が沸いてくる。そしてこの法案の持つ問題点も浮かんでくる。

 一行の法律の背後には百の現実の認識が込められている。

 法律という制度的な言葉の背後には、現実意識や現実認識があるのだがそれこそが問題である。この法案の作成者にも、これを推進している政治家にも進行する社会の動向の認識はあるはずである。そしてそのなかで、国家の役割や国家の構想もあるはずだ。情報の役割や価値についての認識もあるはずだ。そうであるとしたら、僕らはこの法律の各行からそれを読みとらなければならない。僕らの武器は想像力だけであるが、それを駆使してそこに迫るしかない。

 [2]「高度情報社会の進展」は確かにそうだ

   この法案の第一条は次のような文言からなっている。

 「この法律は、高度情報通信社会の進展にともない個人情報の利用が著しく拡大していることにかんがみ、個人情報の適正な取扱いに関し、‥‥」とあってその末尾は「‥‥個人情報の有用性に配慮しつつ、個人の権利利益を保護することを目的とする」となっている。

 この第一条(この法律の目的)にはこの法律を背後にある現実認識とそれに対応する構想が表されている。

 この文章は高度情報通信社会の進展に伴い、個人情報の利用が拡大するから、その保護を目的としてこの法律は作られるという趣旨である。

 僕らは日常的に送られてくるダイレクトメールや電話訪問販売などで個人に関する情報(データ)がいつの間にか他人の手に渡っていること知っている。また、さまざまの形で名簿を集め、情報を伝えたりするのに利用している。 個人に関する情報(データ)がどの程度のものであれ、いつの間にか他者の知るところとなって、利用されることになんとなく不安を感じたりする。不愉快な気分と言っていいのかも知れない。だから、「個人情報の適正な取り扱いとか保護」と言われるとなんとなく納得しそうな気にもなる。

 だが、奇麗なバラには刺があるように、この法案の背後には危険な要素がある。

 高度情報通信社会の進展という言葉がある。

 この法案の第一条にある言葉だ。高度資本主義社会でも、消費社会でもよいが現在が生産優位社会でなくなっているという認識とすればこの言葉は妥当である。

 生産があらゆる価値の源泉であり、それから区別されるものとして流通や消費が考えられる時代ではなくなっている。生産が社会の中心にあって流通や消費などがその下に置かれた時代は終わっている。

 かつて「消費革命論」がジャーナリズムをにぎわしたのは1980年代だった。この論議はいつの間にか消えてしまったけれど、消費革命は社会の深部で進展し、僕らの価値観などを変えてしまった。

 この中で、情報は以前よりも高い価値を持つことになった。情報という言葉の持つイメージも概念も変わった。

 情報の伝達手段も発展し、情報そのものとその伝達手段の商品化も進む。僕らは情報(その伝達手段も含む)の価値が進展する社会を高度情報化時代と呼ぶ。

 この法案にある高度情報通信社会という言葉は、僕らのいう高度情報化時代というとは同じであるといって間違いではない。当然にもこの法案の作成者などには高度情報通信社会の進展に対応するビジョンなり、構想なりはあるのだと思う。

[3]  唐突に登場した法案、という印象

 個人情報保護法案を読んでみて、僕が感じたことはこの法案が唐突に出てきたという印象である。「盗聴法」などの流れをみれば、ある程度の推察はつくが、こういう法案の前に何よりも、情報社会の進展について、あるいはその中での個人情報についての検討がなければならないと思える。

 法案の作成者のその認識が読めないこと、社会全体でその議論が進展していないことを考えれば、この法案の先走り過ぎなのだ。

 高度情報化時代というのは、一般に共有できる時代認識であるとすれば、その社会の中で何が起こり、どういう矛盾が進展しているのが論議されなければならない。

そして情報の役割や意味について、個人情報の役割や意味についての社会的な合意が形成されなければならない。法律が社会的なルールであるとすれば、それは前提であると言わなければならない。

 この法案の唐突さという印象は、こういう背景の考えが見えないことであり、それが公表れていないことにある。

 例えば、この法案の定義(第二条)、第三条から第八条までの基本原則は、どういう社会の動きと関係しているのか、不明瞭である。

 つまり、高度情報化時代の中で、情報はどのように扱われるべきか、とりわけ国家との関係というか、その基本原則が明瞭になっていないのである。法案の作成者たちもそれは模索中ではっきり展開できないのかも知れない。それとも隠しているのかも知れない。

 共通の認識になるものが、提示されないでそれを踏まえた論議も経ずに法律だけが出てくるということは唐突な印象を持つ。そしてそれは危険の察知でもある。

 そうであればこの法律の運用の権限を持つ国家や地方自治体によって、法律の文言とは別のものとして扱われてしまう危険を持つ。この法律は有効に働くというよりもとんでもないものになる可能性が多いのである。

 確かに個人情報の価値が高まり、商品化も進展する中で、その扱いについての社会的ルール(法律)の必要はあると言えなくはない。でも、そのためには情報はどのようにあるべきかの大きな社会的同意が必要であり、その一定の進展までこうした法律は必要がない。 急いで作らなければならない必然性はないのである。

 [4] 情報の問題を考えることは、現在の、そして未来の権力の問題を考えること

 僕は高度情報化時代は、日本社会の構造改革の基盤を準備するものと考えている。情報の高度化の現在的意味をあれこれ考えたりしている。その意味では「個人情報保護法案」の反対運動を通して、僕らの情報についての考え方をより鮮明にしたいと思っている。

 この反対運動はこの法案を廃案にすることを目標としているが、それを通して、僕らの情報についての考えが、議論され、相互の認識が深まるとしたら、それは歓迎すべきことである。

僕が情報の問題を考えることは、現在の、そして未来の権力の問題を考えることでもあり、それはなかなか難しい事柄だと思っている。

 小泉首相の構造改革と僕のいう構造改革は同じではないが、僕もまた日本社会は構造改革される必要があると認識している。

 日本社会の矛盾は結局のところ国家や企業という共同体の閉じられた性格にあり、それを開かれたものにするという構造改革は不可避である。そう考えている。明治維新で衣替えした日本社会は近代社会の外観を持ったけれども、それは特殊な近代社会であった。その根幹にあるのは共同体の閉じられた性格にある。

 日本の共同体は二重の形でそれを閉じられたものにしてきた。その一つは共同体の構成が縦型の性格であるということだ。万世一系型の組織であり、それだけに閉じられた性格が強いのである。

 要するに横からの出入りの自由という空気が薄い。横から別の共同体の風が入ってくることは少ない。日本の軍隊では国家的利害よりも、陸軍や海軍の利害の方が強く、その利害意識が太平洋戦争の推進力になったといわれる。官僚組織では官僚組織間の対立意識が強く、省益という言葉すらある。官僚から企業にいたるまで組織が必然のように閉じられていくのは、その根幹にある共同の意識が閉じられた性格のものだからである。

 この日本的システムの根幹をなす共同意識の閉じられた性格は、歴史的にみれば村落共同体の伝統からやってきたものであるが、日本の近代はそれを解体しつつ再編してきたのである。

 この閉じられた共同意識は制度に帰属することを絶対化するものであり、それは共同体を必要な機能としてでなく、それを超えた絶対的なものと見なす傾向を生む。

 共同体(政治集団、官僚組織、企業)などはその社会的必要なための機能に過ぎないのに、それが理想の王国のように絶対化されてしまう。理念的に言えば、それは宗教化されてしまうし、経済的には利権組織化されてしまう。それは宗教共同体であるとともに生活共同体化してしまう。ある首相は日本は神の国であると言ったが、それは共同体の性格を言っているのであり、現実的には正確な見方だった。

  日本の共同体はその必要な機能において、つまり規範として自立してはいない。

つまり、合理的な根拠によって成り立ってはいない。僕らが官僚組織などの不祥事として目撃している矛盾はこの合理性の欠如の現れなのである。

もう一つは共同体を相対化する個人という存在が、社会の根幹をなすということの欠如である。制度的な言葉の背後には、恣意的な個人の言葉が存在しているという基盤が弱いのである。共同体をその必要な機能として考えること、規範的自立性でかんがえることはそれを相対化して考えることである。それにはその外部に存在する市民(諸個人)の存在こそ普遍的であり、国家や企業などの共同体はその必要な機能としてあるのだ。国家や企業のために、国民や市民があるのではない。

 つまり、国家や企業に存続する人々のために国民や市民はあるのではない。それは転倒であるが、共同体が閉じられていくことは不断にそういう傾向を持つのである。官僚が新たな利権を模索して法律を作るということはそうしたことである。

 この「個人情報保護法案」もそうしたものと言えなくはない。日本における組織がなぜ歪んでしまうのかを僕らはこうした視点で見ていなくてはならない。

共同体より、その外部にある市民や国民という諸個人の存在が社会の根幹であるということは当たり前のことだが、日本ではなかなか通用しないのだ。日本は神(お上)の国なのである。

  時代がこの共同体というの閉じられ性格を突き崩す動きを見せているとすれば、その原因として個人という意識のを進展がある。またもう一つ情報の高度化がある。共同体が閉じられていくのは、共同体の構成が縦型で、横断的な出入りの自由が乏しいからであるが、こうした共同体の性格を解体し、共同体を開いたものにしていくことを市場社会(市民社会の成熟)は要求するが、その武器になっているのは情報である。

  情報という言葉から、僕は大本営やナチスのことを思い浮かべてしまう。若い人には年寄りがられるかもしれないが、これは致し方がない。これは国家が情報を独占し操作することで、独裁体制を保持した例である。情報を独占することは強力な力となる。が、また、情報は閉じられた共同体を開いていく武器にもなる。共同体を閉じられたものにするのは、その成員の共同体帰属を価値とする意識であるが、またそこには情報の独占化がある。共同体の所属よりも、個人という存在価値が大きくなり、その情報の独占化が解体すれば、その共同体は開かれたものになっていくのである。

 最近何かと話題の多い、外務省を例にとろう。この官僚組織は国家のための外交を担う組織である。その組織の中心である高級官僚は試験制度で採用され、後は年次別に出世していくという縦型の組織である。高級官僚の何割かは、横断的に他の領域から参入するという横断型の組織ではない。高級官僚の何割かは外務省以外の諸組織から横断的に参入して入れ替わるということにならないと、この組織の成員は組織の所属をその仕事(機能)以上に絶対化してしまう。共同体の家意識や身内意識はこういう出入り自由な機構にならないと防げない、そうでないとその組織は閉鎖的になり、その情報は独占化される。

 田中真紀子が外務省は伏魔殿といったが、その中で行われていることは外部にわからない構造になっている。そして、また、内部でも一部の人間に情報は独占化されていくことになっている。大臣ですら、その内部で行われていることがわからないのである。確かに、外務省には外交ということに必要な機密はある。だが、その機能的な必要と閉じられた性格からくる機密主義とは別である。外務省の機密費が、デタラメに使われていたことは機能として必要な機密と閉じられた性格からくる機密の混同があることを示している。

 機能として必要な機密が規範として自立した存在になっていないのである。機密は機密という名によって肥大化し、組織の閉鎖性に転ずれば、その下で腐敗が進行するのは必然である。自浄能力など存在のしようがない。

  外交上の機能としての機密が必要であるというのはいい。だが、それを利用して、腐敗が進行したのは外務省がいかに閉じられた組織であるかを象徴している。機密を隠れみのにした犯罪は、一個人の犯罪ではなく外務省の閉じられた性格からくる組織的犯罪である。これをただすのは組織の構成形態を変え、情報の独占化を排除することでである。それで組織を透明なものにするしかない。その中での情報の役割は大きいのである。組織の閉じられた構造に風穴を空けるのに情報の果たす役割は大きい。

[5」高級官僚もまた共同体を変えなければ、と思っている

    現在の国家権力の担い手たちである高級官僚や政治家たちは国家を開いたものにしていこうとしているのだろうか。彼らは高度情報化時代がいわゆる第二の敗戦を必然化したことを認識していると思える。これまでの閉じられた共同体の性格を変えないといけないことも認識していると思う。

 だが、彼らはそれをこれまでの日本社会の改革と同じように、上からやろうとする。その時、彼らが中心にすえているのは何だろうか。軍事力の強化だろうか。暴力装置としての国家権力の強化だろうか。国家が国家である限り、それらは志向されるだろう。しかし、僕は現在の国家がそれを第一義的な課題としているとは思えない。むしろ、それよりは彼らが、ひそかに考えているのは情報の国家管理化ではないのか。

  誰がというより、有能な官僚や政治家ならそれを考えるのではないか。これは僕の想像力というアンテナにつかまえたことに過ぎないが、僕にはそう思えてならない。

 ある時期、危機管理ということがしきりに言われた。これは危機的な事件や現象にたいして国家が有効に機能しえないことであり、その機能の回復を訴えていたのである。それは大きくいえば、国家というよりも制度的な機能が有効に働かないということである。これは制度あるいは共同体に対する、国民の信頼度が薄くなっていることであり、その背後で確実に個人という存在の深化がある。そしてさらに情報の高度化がある。この二つは資本主義の進展とともに深まりゆくものである。国家はそれをどう取り込むか模索しているのだと思う。その中に、情報をどう扱うかは大きな位置を占め初めているのではないか。

 国家権力は日本の国家のありようを変えようとしている。国家権力は権力一般としてあるのではない。それは不断に、その構成と権力のあり方を変えているのだ。誰が(どの階級)が権力を掌握するかに国家権力の問題があるのではない。それは古い思考であり、権力論の古典的形態である。そうではなくて、どういう権力の形態が望ましいか(合理的か、あるいは普遍的か)、権力の構造や性格が問われている。権力は不断に制限されることが望ましいが、それはその存在の合理的根拠を不断に追求することだ。革命権力が超権力を生み、権力の病を到来させた後の《権力と革命》の課題である。

 これは現在の国家権力が背負っている課題でもある。権力は不断に新しい事態を取り込み、それによって権力の構成を変え、自己革新しようとする。彼らは彼らなりに権力の合理的根拠を求めている。恐らく情報の高度化は《権力と情報》という課題を彼らに突き付けているのである。  

 僕は情報の国家管理を強めようとしているのではないかと言った。それは彼ら自身が、高度情報化社会への対処を模索している段階であって、その国家管理を強めるという構想をいだきはじめたのではないか、と想像しているのである。国家管理と言っても、明瞭なイメージがあるのではないと思える。勝手に進展し、あらたな交通形態を生み出している高度情報化時代を権力の構成のなかにどうくみ込むか、模索しているのだ。多分、「個人情報保護法案」もそういう模索の一つとしてある。

 僕は情報の役割や意味を共同体を開いていくことに求めている。ということは共同体をその機能において自立することを求める。それは規範による自立に追い詰めるのでもある。権力論としていえば、それは権力を制限し、その機能的必要に限定していこうということだ。情報の独占化を防ぎ、情報の意味と役割をその武器とすることを模索している。それに、興味を持っている。情報をめぐる国家との闘争はこれからはじまろうとしているのだ。

 [6] 知識とそれによる専門性という幻想にかわるものとして情報の機能

 規制という言葉がある。これは共同体(制度)が支配力を持つことであり、それによって利権ということが発生することを指していた。

 国益という機能のために存在する、機関(官僚組織)がそれ自身の利益(省益)を生んでいくことへの批判であった。規制と日本システム(制度)とは表裏一体であった。それを支えてきたのは専門性という知識幻想であった。

 多分、これを壊すのに最も有効に機能しているのは情報である。現在の国家の担当者は知識とそれによる専門性という幻想にかわるものとして情報の機能に注目しているのではないか。専門性の保持と情報の独占は表裏の関係にある。 高度情報化時代における情報の意味と機能を考えるならば、僕らはなによりも情報の管理ではなく、情報の自由化を考えなければならない。それには情報の独占の排除は重要である。

 そうであるとすれば、この個人情報保護法案の中で、個人情報取扱事業者として国家機関などを除いているのは意味深なところである。

 情報の管理ということが意識されているのだ。管理の対象が見え隠れしているのである。なぜ、国家機関の有する個人情報は保護の対象から外されるのか。民間の情報取扱い業者の「個人情報」は保護の対象であるのに、これはおかしい。国家機関が集積した「個人情報」の取扱いをチェックし制限するというのならわかる。なぜなら、国家機関はその必要な機能のために存在するのであり、したがって「個人情報」の取り扱いもそうした制限を受けるのは合理的根拠がある。国家機関が必要な機能のためというより、それ自身のために存在するように転化し、国家機関のための国民や市民という関係になりがちな中で、「個人情報」の扱われ方の危険を人々が察知するのは当たり前のことだ。さりげなく、国家機関を除外したことは官僚の考えを露出させている。

 国家機関に関する自身の情報はもっと公開されなければならない。

公開され過ぎることはない。機能上どうしても秘密を要するとみとめられるも(誰もが納得するもの、合理的根拠をもつもの)を除いて公開されなければならない。先に外務省の例をあげたけれども、これがいかに困難なことであるかははっきりしている。逆にこうした機関の有する「個人情報」の扱いはチェックされ、制限されるべきである。それはこうした機関が何とためにあり、どのように制限ずけられてあるべきかかという、その存在のあり方から出てくるのである。

 国家機関のために国民があるのではなく、国民が必要としている機能のために国家機関があるのなら、国家機関が有する「個人情報」の取扱いはその観点からチェックされ、制限されるべきなのだ。

[7」 個人という言葉が現実の肉体を持った言葉にならなければならない

 「個人情報」といことについて言えば、何よりも大事なことは個人という概念をどう考えるかということである。

 ここで基本的に考えなければならないのは制度と個人という存在をはっきり線引きすることである。個人という言葉が制度から出てくる言葉でなく、現実の肉体を持った言葉にならなければならない。

民主主義も市民も国民もみんな、国家が与えた言葉であり、それらは肉体(現実意識)を持った言葉ではない。肉体を持った個人の言葉は制度の外にある。それは恣意的存在である。そうであれば現在では恣意的なものは守られなければならない。

表現の自由とは現在では制度の外にある恣意的なものの擁護である。恣意的な存在の発する言葉は、制度としの国家に対して無茶無茶なものとして出てくる。だから、国家はそれを規制しようとするのだが、それに対抗しなければならない。個人の存在から発する情報の重みはそこにある。個人情報が表現に抵触するのはそこである。

個人情報が何から保護されなければならないかといえば、国家の管理からである。

まりは個人情報は自由でなければならない。個人の情報の保護という名目の国家的な管理こそ警戒しなければならない。

 そして、制度の中の個人ということと、制度外の個人ということとは区別されなればならない。公人と私人という使いかたは大ざっぱであるが、これを分けている。私人としての情報は「個人情報」として保護されるべきであるが、公人としての「個人情報」はその限りではない。それは制度という機能が、権力を伴うからであり、権力が透明性を保ち開かれてあるために必要だからだ。その機能が権力を持ち、それゆえに公とよばれる度合いが大きければ大きいだけその中での「個人情報保護」というのは存在しなくてもよい。これは機能とともに発生し、機能の中に包摂される。

 公人とよばれる存在は権力を伴う度合いにおいて私人という概念は縮小するとかんがえるべきである。歴史的にみれば事態は逆であって公人だけが、しかも権力を伴う度合いか大きいだけその「個人の情報」も保護されてきた。これは、小泉純一郎が首相であるときと、議員であるときと、市民であるときとは「個人情報の保護」は別のものとしてあるということだ。 「個人情報」が何らかの形で守られる必要があるということは当然のことだ。個人の情報をどうするかは個人の自由(自己決定)に委ねられてしかるべきだからだ。そして、保護されるべき情報は徹底的に保護されるべきだ。

ただ、それが法律としては必要かというと、そぐわない気がする。保護に必要な法律なら他にあるからだ。それでも法律の必要という考えも発生すると考えられる。ただ、そのためには情報と自由、あるいは情報と個人などいくつかの問題の検討が重ねられるという前提が必要である。保護される情報についてもである。

とりわけ、閉じられた共同体(制度)と情報の関係についての徹底した検討が必要である。これは高度情報化時代の中で、情報の持つ意味や価値についての検討を通して共通の認識という土壌を形成することである。

この基盤のないところでこうした「法律」だけが先行するのは危険である。僕は最初にこの法律が唐突な感じがすると書いた。

これは土壌のないところで、法律だけが先行するようなものであるという意味でもある。

 

★関連項目

  三上 治 氏との対談 (雑誌 論座 叛乱者グラフィティ 2000年7月)